つづき
「たぶんこっちだな」
先輩はいやに細い道を進むよう指示した。
「何があるんですか?」
「たぶん何かがある」
「ほんとですか?道めちゃくちゃ狭いんですけど……」
「あ?行くっていったら行くんだよ!!大丈夫だから!」
僕は先へと続いているのかどうかさえ分からない細道へ車を突入させた。鬱蒼とした森の中を車は進んだ。陽も落ちた、街灯もない、道はとにかく暗かった。加えて道は、ダムのふちを沿うようにして激しく蛇行した。突然道が一気に狭くなった。山肌が崩れ、道に土砂が積もっていたのである。
「これ、行くんですか…?」
「いくんだよ!!」
「通れますか…?」
「こういうものは、通ろうと思えば通れるものなんだよ!」
先輩は強硬であった。
ある日のこと、それは夜のサイゼリアであった。僕は大学二年生であった。ミラノ風ドリア、たらこパスタ、ペペロンチーノ。大学の友人たちはみな思い思いに注文をした。腹をすかせた男たちは、各々に時間をつぶし、来たるべきイタリアンを待っていた。
先輩が、ふとこちらを見て挙措を正した。一呼吸おいて、おもむろにバッグからウイスキーを取り出したのである。
「大丈夫ですか…?店でそんなの出して」
「飲むって言ったら飲むんだよ!!」
まわりのざわつきをよそに先輩はウィスキーをぐびぐびと飲みだしたのである。これは先輩の典型的な論法であった。仮言命法「AだからBである」ではなく、定言命法「AだからA、とにかくA」なのである。あらゆる主張を定言命法によって行使するのだ。
僕は、通れますように!という祈りを靴底に込めてアクセルを緩やかに踏んだ。中古のおんぼろベンツは土砂の脇をするすると進んだ。車は上手いこと土砂を回避し、ふたたび細い細い車道をすすむことになった。
車の側面をこすりそうな道はつづいた。突然、真っ暗な道に、ふらっと犬の散歩おじさん現れた。のろのろと浮浪者のような歩き方をしていた。
「不気味ですね」
言葉とは裏腹に、山田は全然不気味さを感じていない表情をしていた。山田はにやけ顔なところがあった。
「まだ、行くんですか?」
僕は、何度目かの確認をした。
「大丈夫だから」
先輩はむやみに強硬だ。
「でも、これどこへ向かってるんですか?」
「うるさいなあ。たぶん景色がいいところにでるんだよ。ぐちぐち言ってないで進むの」
「ホッホッホ。そうですね。進むしかないですねえ」
オネットは運転手の苦労など1ミリも忖度する様子はなかった。
どこまでも綺麗な景色の気配すら微塵も感じさせない深閑たる道である。いったいどこまで行くんだ、とくらくらしていた、その時であった。黒い影が道へのそっと現れた。その塊は、ぎろりとこちらも見た。
「鹿!?」
「鹿!!!」
「し、鹿!?」
かさかさとクーラーの音が響いた。立派な鹿がこっちに一瞥をくれていた。ライトに照らされ、妙な存在感があった。なんだこいつら、という視線を我々に浴びせ、鹿はしずかに森へと去っていった。
「鹿…… ベンツでよかったな、ベンツはきゅっととまるからな…」
「まだ行くんですか…?」
「わかった、あとひとカーブぶんだけ行こう」
先輩もこれ以上進んでもただの森、それも鹿が飛び出してくるような森であることをりかいしたようだった。
ひとカーブぶん進んだところで、そこにはもちろんなにがあるわけでもなく、車は無事に引き返すこととなった。完全な徒労だったのだが、先輩の手前、本当に無駄足でしたねなどということも出来ないので、いそいそと大通りまで車を戻し路肩に停車した。森から帰ってきた僕たちを青白い街灯が照らしていた。
「目下、われわれに必要なのは夕飯である、夕飯なのである」
先輩は、自分のミスを帳消しにすべく新たな号令をかけた。
一番後輩の山田がスマホをはじいた。
「八王子ですね。カレーが上手いらしい店を見つけました」
「完璧だ、山田くん。いまわれわれに必要なのは、景色ではない。カレーだ!」
僕はすぐに側道に車を止め、ナビに八王子を入力した。店まで50分くらいのようだった。
「八王子といえば、ユーミンの実家の呉服屋がありますね。確か駅から近かったはずです」
「いいじゃないか、ぜひそこも行こう」
先輩も僕も年甲斐もなくユーミンが好きなのであった。
つづくかもしれない