重慶で一通り遊んで、ホテルへと戻った。中の下くらいのたいした特徴のないホテルだった。窓が一つもない閉塞的な部屋を割り当てられた。窓がないホテルというのは、時間や空間への感覚が曖昧になっていく。静かな白塗りの壁の部屋は、外の喧騒から完全隔絶の精神と時の部屋であった。
「さあ、そろそろ、飲みましょう」とのだれかの掛け声で、飲み会が始まった。
机の上には近所のスーパーで買ったGreat Wall Wineが鎮座していた。パッケージには万里の長城が刻まれている。口に含むと、うーんちょっと薄い赤ワインのような味がするなと思った。赤ワインなのだから当たり前なのだが…… 残念なことに僕は、ワインの味がほとんどわからないのだ。
となりの果物は、金西梅というものらしい。梅を砂糖漬けしてあるお菓子である。重慶ではけっこうメジャーなお菓子なのか、道端で盛んに売られていた。白熱灯に照らされて、金西梅の鮮やかでまがまがしい紅色は僕の目を強く引いた。
「これうまいのかな」と僕が問うと「まあ、なんかうまそうだし、うまいんじゃないですか?」という情報量がない答えがだれかから返ってきた。
「そうか、じゃあ買っていこうか」という思考停止的会話をへて部屋へと運び込まれた。
禍々しく赤いその食べ物は、果てしなくあまかった。梅は口の中で、これでもか!重慶ナメンナヨ!と言っているような気がした。シロップにつけて乾かして、とういうのを何サイクルか繰り返しているような甘さで、実の中までしみじみと甘かった。僕は、申し訳程度に2〜3個手をつけて、ワインを飲みに専念することにした。
楽しく1時間ほど飲んでいた。旅行にいったのももう10ヶ月ほど前となっており、会話はほとんど覚えていない。やたらと楽しかった会話がなされたような気もするけれど、何も思い出せない。日記はそもそもの大前提として10ヶ月前の出来事を記録するためのものではないのだ。
僕は、ワインを調子よく胃に流し込んだため急速に眠気な眠気に襲われていた。僕は酒を飲むとわりとすぐ眠くなってしまうところがあった。重慶の街を長時間歩いていたこともあり、眠気は不可逆的につもっていく。まぶたがずんと重くなった。
「ちょっと、一瞬だけ部屋に戻るね。スマホを充電しないといけないからね」
といって僕は飲み会をしている部屋から自分の部屋へと戻った。寝るといって部屋に戻ると、え、もう寝るんですか、むしろこれから飲むんですよ!とかなんとかいって、間違いなく引き止められるからである。付き合いが十年近くなると、相手の回答を予想して行動するようになるものである。部屋に戻って、そのままベッドの上に倒れ込んだ。不可逆的眠気は僕の心身をすぐに停止させた。
30分ほどここちよい安眠を貪っていると、かちゃかちゃという音で意識がもどった。誰かが部屋に入ってきたようだった。しまった、寝ていたのがバレてしまうと、僕は、さも全然寝ていなかった、あくまでもただちょっと寝っ転がって休憩していただけなんだよ風を装って来訪者を招き入れた。顔をすこし赤くした田中が声を裏返しながら言った。
「加藤さんが、もしかしてきくちさんが寝てしまっているかもしれない。それは由々しき事態だからちょっとみてきてって言ってるんですよ」
僕は田中に「いやいや、全然寝てないよ。スマホの電池がきれていてね。むしろ夜はこれからだからね」といって立ち上がった。
少し眠って体が軽くなったので、飲み会がおこなわれている部屋へ戻った。加藤と山田が「足りませんね。もう酒がありませんよ」と気炎を吐いていた。加藤の目は怪しげに笑っていた。加藤は酒を水のように飲みやつだった。山田は酒を吐くまで飲むやつだった。
「なんか外に雲呑麺屋があったよ。あれ食べにいこうよ」
苛烈に酒を飲む者たちを沈静化させるため、僕は少し夜風に当たりにいこうではないか的な提案をした。皆そろそろ塩分を摂取したくなってきていたのか、すぐ外へ出ることになった。街にはうすく靄がかかっていた。街灯がぼんやりと光を滲ませていた。
「雲呑麺うまいんですかね。なんだか、中国であまり美味しいものに当たってないですからね」
田中は言った。
「雲呑麺がうまくないなんてことはなかなかないんじゃないかな。シンプルだし。」
僕はそう言って、頭の片隅では、上海の離れ小島に言って「港町だし海鮮がうまくないなんてことはないんじゃないかな」と言いながら、劇的にまずい鍋に邂逅してしまったことを思い返していた。
重慶の街の中心は洗練されていて都会的だ。
誰とはなしに僕たちは小走りになっていた。アルコールが体を巡っていくのを感じた。頭がすこしジンとした。僕はやはり走りながら、あれ、上海の離れ小島でも酒が足りない!といってスーパーまで酒を買いに行ったことを思い返していた。人間どこにいてもやることは一緒なのだなと思った。
0時も近かったけれど雲呑麺の屋台は快調に営業を続けていた。湯気が重慶の街に立ちのぼっていた。
雲呑麺をふたつ頼んだ。塩分を含んだいい匂いが鼻腔をくすぐった。雲呑が大鍋にぼんと放り込まれる。鍋がぼこぼことなっている。
湯の中をゆらゆらと漂う白い雲呑。麺が放り込まれる僕はぼーっと鍋を観察していた。湯気は立ち上り続けていた。
これはうまそうだ。これがうまくなかったとしたら、麺類の敗北である。なぜならこういう匂いで、こういう見た目の麺類は即ちうまいはずだからである。僕は手際の良いおっちゃんの麺の湯切りを見つめ、静かにその提供を待った。
裏から、突然歓声が上がった。何事かと思って振り返ると、加藤と田中が、これは大変なことですね…と何やら盛り上がっていた。
「なになに、何があったの」
「雲呑麺屋の老婆が突如艶かしい動きをしてですね、紙切れを渡してきたんですよ」
加藤はたいへんなものをみたなというような表情であった。
「あれは艶かしかったですね… びっくりしちゃいましたよ」
田中もにわかに興奮している様子だった。
「どういうこと、何が艶かしかったの?」
「いやあ、すごかったんですよ!」加藤と田中はなにやら二人で延々と盛り上がっていた。聞いても何が艶かしかったのかは、二人から述べられることはなかった。
紙切れにはどうやら、春を売るタイプのテレフォンナンバーが書きつけてあるらしかった。老婆のナンバーなのだろうか……
重慶の真ん中と言っても過言ではない場所で、こうやって裏社会的行為がおこなわれているのかと僕はびっくりした。しかもなんと言うことのない露天の雲呑麺屋の老婆がである。
ホテルに戻って雲呑麺を食べた。あの老婆が売っている雲呑麺だと思うと、雲呑麺には老婆の歴史がとけこんでいるような気がした。やはり部屋はのっぺりとしていて、時間感覚を失わせた。雲呑は大きくぷりぷりで幸福感があった。揚げ焼きのような卵も汁を吸っていて美味しかった。やはり麺類はすべからくうまいものなのだなと思った。あたたかいスープをすする。雲呑麺はすぐに胃の中へ消えていった。
特に利用されることもなく、紙切れは机の上にぽつねんと置かれていた。