今夜はいやほい

きゃりーぱみゅぱみゅの「原宿いやほい」のいやほいとは何か考察するブログ

30歳になったので、埼玉のモスクで祈った

「フォカヌポウ」というネットスラングがある。意味はググって欲しい(ググっても、意味はあってないようなものなのだが)いきなりフォカヌポウがどうしたのだ、とお思いの方も多いと思うのだが、朝起きて部屋の中でゴロゴロしていたら、どこからともなく、軽妙極まりないトルコ行進曲にのせてフォカヌポウという言葉が流れてきたのである。

 

しかも、フォカヌポウであればまだいいものの、フォカヌポウは時々、フォヌカポウとなり、歌詞に潜んでいるようであった。隣の部屋では、どうやら由々しき何かが起こっているようにも思われたが、気にせず布団から出ることにした。

 

昨晩、ジュニパーベリーとその他いくつかの香辛料をウォッカに漬けておいたのを思い出した。コロナで一応外出を控えめにしている僕は、やることを失い、迷走の果てにジンもどきを作り続ける人間となっていた。第四試作ジンもどきである。

 

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ウォッカを買ってきては、夜な夜な台所に散らばっている香辛料をボトルに突っ込むのである。キャップをひねり瓶の口の香りを確かめる。たしかにジンのような香りがしている。夜になれば、ふふふふと怪しげな引き笑いと共に、ジンをグラスに底3センチくらい注いで、氷を落とし、ソーダなどで割ってひそひそと飲むのである。これが最近の楽しみなのだ。

 

歯を磨き、そういえば数日前に30歳になったことを思い出す。30歳ともなるとひとつステージが上がったような気もするが、家族以外誰からも祝われることもなかった。僕のロジックでは、これはつまりコロナ状況下における人間関係の希薄化が影響しており、不可避的帰結なのであるという結論であった。しかし、配偶者も同じ月に生まれであり、あ、またお祝いのメッセージが!などと、誠に都合の悪い現実を見せつけられてしまったのである。

 

やたらと天気がよかったので、自転車に乗ることにした。とりあえず、川口にでも行って、中華食材でも買って帰ってきて、何か作ろうと思った。荒川沿いをゆったりと漕いでいく。春風もあたたかなものである。

 

昔撮った土手写真

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土手というのは謎の空間である。後頭部を刈り上げた筋骨隆々の日焼け男性がシュッシュッという効果音と共に走りぬけていったり、やることをなくした老人が座り込み、ひとり缶チューハイを啜っていたり、顔を全て覆い隠さんとするハットをかぶった女性が犬を従え歩いていたり、農家のおっちゃんが山盛りの農具を抱えていたり、子供が有り余る元気を放出させて駆け回っていたり、善男善女が夕焼けを背に、指などからめ、睦まじくデートをしていたりするのである。土手というのは誰が何をしていても許されそうな気配がある。決闘が土手で怒るのも納得である。

 

昔撮った荒川沿いを

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僕のようにただ何をするでもなくただ通りすぎていく人も多いようである。土手の下を見下ろせば、中学生の男女が白いユニフォームに身を包み、野球の練習をしていた。

 

コーチが球を投球マシンに入れる。中学生の女の子はぶんと空振りをする。コーチは球を入れる。空振りをする。ボールが後方でただ砂埃を巻き上げ続けている。10球ほどの空振りを経て、こつんと一塁側に玉が飛んで行った。埼玉の平和な午後である。

 

そういえば、数ヶ月前、この辺にモスクがあるのだというツイートが流れてきたのを目にしたような気がした。「モスク」とGoogleで検索してみたら、予想通り、モスクは自転車で五分くらいの距離にあるようだった。ちょっと見に行ってみるかと、交差点を西へ曲がってみることにした

 

自販機、コンビニ、謎の小さな雑居ビル、松屋などが繰り返し現れる、なんとものっぺりと平坦な道を走っていく。冬の出がらしのような空気の中を自転車が進んでいく。ゆで太郎が視界に入り、去年の夏は、結構ゆで太郎の茄子唐揚げ大根おろし蕎麦を食べたなあと、蕎麦畑の追憶の中にいると、突然、窓ガラスが割れた3階建ての建造物が現れた。

 

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所々が緑色で角張った形をしている。のっぺり埼玉空間の中でその建造物は浮き立っているように見えた。本当にモスクなのだろうか。モスクといえば、あの天高く伸びるミナレットと球形の天井である。目の前の建物はどちらも満たしていないように思われた。自転車から降り、周りを歩いてみることにした。

 

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モスクの周りは車がチョロチョロ通るくらいで、基本的にはとても静かだ。ぐるっとモスクを回ってみると、上半分がガラスになった戸があった。中は暗く、外の光で反射してよく見えなかった。何か中にあるのだろうかと、顔を近づけ覗き込んでみるも、中の様子はいまいち分からなかった。うーむと、5秒くらいみていると、その戸が突然カラカラと乾いた音をたて開いた。

 

ドアの隙間から60歳くらいに見える男性の顔がのぞいた。それはさながら、映画シャイニングのジャック・ニコルソンのようであった。人の良さそうな笑顔を浮かべるおっちゃんは「どうぞ、入ってくださいね」と僕につげた。中が薄暗かったので少し不安だったのだけど、暇なので入ってみることにした。祈って行ってねと言って、おっちゃんは、モスクにある足洗い場に消えていった。

 

モスクの中は、ちょっと大きなコンビニくらいの広さで、一面に赤いのカーペットが敷かれていた。祈りの時間を示すための電光時計と中央の説教台があるくらいで、がらんとしていた。端っこの方に男性が一人だけいて、何をするでもなく立っていた。祈っていってと言われてもどうすれば良いのか分からないなと思いながら、ぐるっと中を一周まわってみた。部屋の端の方にはイスラム関係のパンフレットなどがつまれていた。

 

足を洗ったおっちゃんが戻ってきた。

 

「モスクは初めてですか」

 

「昔、イスタンブールにいった時に見ました。ちょうど一年くらい前なんですけど」とスマホの写真を見せると、「ああ、有名なところですね、彼はトルコの人ですよ」と言って、部屋の端にいる緑の服を来た男性を指差した。

 

「そろそろお祈りの時間ですね」

 

「あ、そうなんですね。埼玉にモスクがあったの全然知りませんでした」

 

「そうです、教会みたいなものですね。この辺に住んでるんですか」

 

「自転車にのって数十分くらいのところです」

  

緑服の男性が部屋の中央にやってきて、居住まいを正すと、確かな声でアザーンをはじめた。アザーンというのは、なんという動詞と共に使うべきなのだろうか。アザーンを歌い始めたの方が正しいのだろうか。

 

アザーンというのはこういうやつだ。

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部屋に声が満ち、埼玉のなんでもない家並みが、厳かな神聖さを帯びた気がした。僕を誘い入れたおっちゃんは静かに床に座り込んだ。僕も隣に座って、張りのある声で奏でられるアザーンに耳を傾けた。世界中で、ある時刻になると、こうして各地で、祈りの行事が始まっているのかと思うと、不思議な気分である。

 

祈りの時刻表

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アザーンが終わって少し経つとアスルと呼ばれる祈りの時間になったようだ。モスクにいた、二人のおっちゃんはそれぞれ祈り始めた。僕は、どうすればいいのかよく分からず、あいまいな表情を浮かべながら、座っていた。祈り慣れをしていないと、突然はいほら祈って、となった場合に、流れ星が突然見えて、あっあっと慌てるだけの人間と同じような状態になってしまうのである。あっあっと、何を祈るでもなく、時間がすぎた。

 

そうタイトルに祈ったと書いたが、忠実に書くのであれば、何を祈るべきか考えていたという状態であった。しかし、30歳になったので、何を祈るべきか考えてみたというのも意味不明なタイトルなので、祈ったことにしたのである。

 

モスクを出て、自転車を漕ぎ始めた。その頃にはだいぶ日が傾いていて、川口についた頃には街灯がともっていた。中華食材店で、なぞのナッツのようなものを買い、自転車はレンタルだったので、適当に乗り捨てて、電車に乗り速やかに帰宅した。そんな感じの30歳の始まりだった。