首都高を走るのはとても楽しい。それが夜だったなら、なおのことだ。つくしの群生のようにぽこぽこ生えている高層ビルの間を走っていく。道は冗談のように蛇行していて、東京タワーはおもちゃのように赤く光っている。好きな音楽をかけて、男たちで不気味にそれを口ずさみながら、ブーンと東京を南にむかって走っていく。
青いとばりが道の果てに続いてる~
悲しい夜は私をとなりに乗せて~
「いやあ、名曲だねえ」
先輩はしみじみと言った。
「そうですねえ。名曲ですね…」
僕も負けじとしみじみしながら答えた。
ユーミンの歌はドライブに最適なのだ。歌詞のもつ情緒、および旋律がもたらす疾走感、曲のバリエーション。総合的に勘案しても、ユーミンほどドライブに適した音楽はなかなかないのである。難点があるとすれば、男だけで口ずさんでいるとなんだかとても残念な気持ちがしてくることである。
山手のドルフィンは~
静かなレストラン~
かわいいリリックが、男たちの低い声で車内に響いていた。先輩もその不気味さに気が付いたのか「軍歌はないの?」とリクエストした。先輩は、好きな音楽はユーミンと軍歌という変わった性癖を持っていた。ないですね…と告げて、しばし、黙々と走った。
先輩は折に触れ、紀元は?とよく問うてきた。多くの人には何のことなのかわからないことと思われるが、紀元はと問われたら、2600年と軽快に答えなくてはならないのである。それが卒なき軍歌コミュニケーションなのである。
後部座席には、大学の後輩の田中が乗っていた。
「最近は、どうなの?」
僕は適当な調子で近況を聞いてみた。
「いやあ、大変ですよ。生きるというのは、大変です」
田中は後部座席からそんな感じのことを言った。話を聞いていたら、最近身の回りにいろいろあったらしかった。
「そうだよなあ…生きるのは大変だよ。おれも毎日が戦争だ。毎日毎日、ロボットのように研究をしなくてはならないんだよ。世界がセピア色に見えるの。わかる?これは戦争なのね…」
研究者の先輩は悲哀を込めて言った。
金曜日のオフィスビルはきらきらと輝いていた。ユーミンはカーステレオの中で軽快に歌い続けていた。
「だから、真鶴は救済なんだよ。真鶴に行って、癒されるの」
先輩は威勢のいいことを言うのが好きだった。
真鶴はほどよく地方だ。都市でも田舎でもなくて、とにかく的確に地方なのだ。真鶴駅から相模灘まで緩やかな下り坂が続いている。小さな漁港があり、おししい鮮魚が居酒屋で楽しめる。適度な間隔で家並みが続いていて、夜になれば、ぽつりぽつりと街灯がともりだして、港にオレンジのあかりをこぼしている。波止場に腰かけて、酒を飲もうものなら、それはもうとても素晴らしいことのようにおもえるのだ。イデア的ともおもえる地方空間、それが真鶴なのだ。
車は快調に走行を続け、ほとんど真鶴、これはもう真鶴といっても過言ではないというようなところまで来ていた。
「うわ、すごい」
先輩は、車窓から海を見ていた。
「うわー、これは、本当にすごいですね。きれいだなあ」
田中も後部座席から海をのぞいていた。
なんだなんだとハンドルを握っていた僕もぎゅっと頭を低くして、窓の外を見た。雲の切れ間から、月が、我こそはこの夜を統べる女王なりといった調子顔を出し、ギラギラ力強く、自信ありげに発光しているのである。ちょっとまぶしさを感じるくらいの光量であたりを煌々と照らしていた。柔らかく一面に吹き付ける風が海に幾何学的な紋を浮かべ、月の光が細かく乱反射していた。これはほとんど絵画のようだなあと思った。夜空と海の褪せたモノトーンに無機質な光が哀しく浮き立っていて、なんだかとても非現実的に美しいのだった。
うわーっとみんなで感嘆していると、すぐ、道が逸れて海から離れてしまった。
「やっぱり真鶴は最高だなあ」
先輩はそうつぶやいて、また、ユーミンを口ずさみ始めた。
真鶴岬のふもとにある民宿を予約していた。21時までに絶対チェックインをしてくださいねといわれたのに、21時5分に到着した。ああ、まずいなあ、と思いながら受付をすます。気のいいおばちゃんは、温かく迎えてくれた。
夕飯をたべよっかと宿を出た。僕たちは、2年前にも真鶴に来ていて、居酒屋に当てがあった。港のはずれにある宵という居酒屋何をたべてもやたらとおいしかったような記憶があった。そこに行けば外さないだろう、そうだろう、ということで海沿いの小高い波止場を店に向かって歩き始めた。
「せっかく月がきれいなのに、雲がかかっちゃってるね」
僕は前を歩く田中に言った。
「そうですね、でも雲の流れも速いですし、また顔を出すかもしれないですね」
「前に、真鶴に来た時もこの道を同じように歩いていたけど、あの時の月もすばらしかったな」
先輩はずんずん歩きながら残念そうに言った。
「あれは、すごかったですね。人生ベスト3くらいの、きれいな月でしたね」
夜風が気持ちいいなあ、11月か。秋だなあ。こんがり焼けた秋刀魚に大根おろしをこんもり乗せて醤油をふって、そういったものを食べたい季節だなあ。妄想ははかどり、ずんずんと波止場を歩いた。潮騒が響いていた。
月は雲を挟んでいても分かるくらい大げさに輝いていた。秋の夜道は哀愁をたたえた色をしている。
そして、宵は営業時間外だった。腹がへりまくっていた僕たちは落胆した。わかりやすく見事なほどに落胆をした。店には灯りが付いていたのである。意気揚々と扉を開けると、もう営業終わっていますとの仕打ちなのだ。三人でケッもう、こんな店こないからな!と睥睨をきめた。
結局、駅の近くまで、戻り富士食堂という居酒屋に入った。
立派な金目鯛だ。真鶴で食べたものでまずかったものがない。やはり真鶴はすばらしい土地だ。
「最近はね、寝ながら勉強してるの。わかる?寝ながらね。」
研究者の先輩は、寝ながらいかに効率よく勉強することが可能かということについてあつく語っていた。後輩の田中は尊敬のまなざしを向けていた。
研究者というのはおそろしい仕事なんだなあと思いながら、宗田カツオをだべた。もちっとしていておいしい。
「やはり、真鶴は、毎シーズンの勢いで来なくてなりませんね」
僕は、Nか月ぶり、N度目の、命題の確認をおこなった。ぼくと先輩は、会えばかならず、真鶴にいつ行くかという話をしていた。しかし、機会はなかなか巡ってこないのだった。
先輩と後輩は、そうだ、まこと、全き真実であるといった調子でうなずいた。しかし、きっと来るのはまた数年後なのだろうなあと思った。
お茶漬けでしめる。魚のうまみとミョウガの香りがいい。あったかくて身に染みる。真鶴はいいところだなあと、盛り上がっていたら、店主が、サービスと言って、おひたしをつけてくれた。やはり真鶴はいいところなのだ。
宿の前の海辺で酒を開けた。
遠く向かいに三浦半島が光っているのが見えた。三浦半島は元気そうな色でかがやいていた。共通の友人が、気がふれてしまったらしいのだという話をした。なんだか、そんな話ばかりが周りにたくさんあるような気がするなあ。ただ生きているのはかくも難しいことなのか。
夜釣りの人々が、鷹揚なポーズで竿を振っているのが見えた。近くには、テントをはり、火を焚いて、珈琲をすすっている人たちがいた。
「あれ、いいですね。僕たちも、ああいう感じの生活が必要なのではないでしょうか」
「そうだなあ、今度やろうか」
「そうですね」
「いいですね」
安いハイボールを飲みながら、口ではそんなことを言っておきながら、しばらくはそんな日々は訪れないのだろうなあと思った。次、真鶴に来るのはいつになるだろう。静かで小さな夜だった。