春秋航空がセールをしていたのでチケットを押さえた。行きは成田-武漢、帰りは重慶-成田というなんともいびつな旅程となってしまったという問題はあったものの、きわめて安い値段でチケットを押さえることができた。ウキウキしながら頬もこわばる東京で冬を過ごし、1月下旬、日本を離れた。
「上海?もう20回は来てますね、ていうか先月も来ましたから」
との発言で、上海旅行中に僕を驚嘆させた、中国オタクの大学の後輩加藤に声をかけていたので大勢は盤石であった。彼は、サラリーマンとして稼いだ給与のほとんどを航空券代に費やすことによって、信じられない回数中国に入国していた。ほとんど取りつかれているといっても過言ではない。成田空港で加藤に会うと、こんなことを言った。
「先週は、大連から、中国と北朝鮮の国境を見に行きました。連絡船で川向まで行きまして、もう目の前が北朝鮮でした」
加藤は写真を見せてくれた。
「何それ……大丈夫なの」
北朝鮮と言って見せられた写真には山・川・原っぱというただの田舎的風景が広がっていた。なんとなくげに恐ろしい北朝鮮であるが、政治的に危うい個所をのぞけば、牧歌的な光景がそのほとんどなのだろう。
「多分、大丈夫ですね。まあ大体のことは大丈夫ですよ」
「そうか……何事もなくてよかったよ。捕まったらシャレにならないからね」
「きくちさんも今度行きますか?」
加藤はにやにやと悪そうな顔で誘い文句を述べた。
「いや、さすがにちょっと、それはやばいとおもうよ。公権力からマークされるような人生を送りたくないからな……」
そんな話をしていると、あっという間に武漢に到着した。
武漢の空気は日本より少ししっとりしていた。大気が白くかすんでいた。中国大陸の内陸は、よく霧が出るらしく、日本のからっからに乾燥した冬とはだいぶ様子が違うようだった。
「腹が減った、腹が減った…」
朝8時発の飛行機で、昼過ぎに武漢に到着した。春秋航空はフライト中、水さえ配らないので、僕は本当にお腹が減っていた。
「はらが減りましたねえ…たしかに何か食べたいですね」
第二の後輩たなかはつぶやいた。
「じゃあ、熱乾麺食べましょうか。武漢と言えば熱乾麺、熱乾麺と言えば武漢ですからね」
加藤はそう言ってスマホで何かを調べ始めた。
熱乾麺というのは、中国五大麺のひとつに数えられる伝統的な麺であるらしかった。武漢の市民たちは、とにかく、この麺を愛していて、朝食の定番メニューのひとつようになっているらしい。
「蔡林記っていう店がおいしいんですよね。いろいろ行ってみたんですけど、ここなら間違いないです。そして、偶然にも空港に店舗があるらしいです」
と言って加藤は僕たちを引き連れ、店を目指してもそもそと歩き出した。蔡林記は思ったよりすぐ近くにあった。
店内は現地の人でごった返していた。
「空港なのに中国の人ばかりだね……」
僕はたなかと空いている席を探してまわった。
「なんか、ちょっと怖い雰囲気ですね……」
気の弱いたなかは物珍しいものを見るような目つきで店内を見まわしていた。
食べかすだらけの席が空いていたので腰をかける。しばらく待っていると、加藤が麺を運んできてくれた。
海老熱乾麺
「え、めっちゃおいしそうじゃん!!」
かつて上海を訪れたとき、想像を絶するほど残念な料理に何回か遭遇していた僕は「期待値を挙げてはいけない、不用意な期待はむしろ実質的なおいしさを落とすものである。そんなおいしくないものが出てきても、最低限食べれれば御の字ではないか、そうだ、旅行とはそのメンタリティこそ大事なのではなかったのか?」という自己暗示をかけ始めていた。
訝しみをがっつりと背負った僕は、普通に麺類としてクオリティの高そうな見た目を持った料理が運ばれてきたことにとても驚いた。陽気にまかせてぐるぐると麺をかき混ぜる。丸麺に胡麻のソースが絡む。よい匂いがむわっと立ち上がってくる。朝から何も食べていたなかったので、匂いに反応して口によだれがだっと分泌されているのを感じた。
麺を口にほおりこむと焼きそばのような味がして、あとから胡麻のたれと辛味噌の風味が抜けていく。麺の硬さもちょうどよく、トッピングに大根の浅漬けのようなものを入れたのでシャキシャキとした触感がよいアクセントになっていた。全体的にはさっぱりとした感じで、確かに朝食にも良いのだろうなと思った。現地の中華料理感を感じさせつつも、日本人の口にも合うタイプの料理だ。この熱乾麺なるものは日本に入ってきたら流行るんじゃないかなあと思った。
僕たちはほとんどだれも口をきかずに黙々と食べつづた。
あっという間に食べ終えて店を出た。よい旅行になりそうな気がした。