私は内勤である。外出はあまりない。外回りの仕事がとんと想像つかない。内勤は外出への欲望を募らせる。どこかへ、どこかへ出かけたくなるのだ。
気がつけば富士吉田に向かっていた。富士山を見に行くのもよい。しかし、富士吉田はそれにとどまらない良さがあるのである。
富士吉田といえば日帰り旅行、日帰り旅行といえば富士吉田。東京からの絶妙な距離感、富士吉田は日帰り旅行のメッカなのである。
富士吉田にいったい何があるのか。
そう、吉田のうどんである。富士吉田はうどんのメッカでもあるのである。もはや世界の本質は富士吉田にあった。
たかがキャベツがやたらとうまい。
だらだらと街を歩いて、なんとなく見つけたM2という喫茶店に入る。
店内にはラジオがかかっていた。DJが学生の悩みに答えている。女性が隅の方で一人読書をしていた。静謐な喫茶店だ。ごちゃごちゃしていてひとつひとつのものに歴史を感じる。よい街にはよい喫茶店があるものなのだ。
薄暗い空間に控えめのライトが照っている。ソーダ水を頼む。コバルトブルーの液体がやってきた。薄く切ったレモンの黄色さが弱々しくもきれいである。
ハイネケンが光っている。
ソーダ水を飲んで、友人と吉田のうどんについて話す。なんとなくくるくると周りを見ていると、壁にフジファブリックのファンのコメントが貼り付けてあるのに気がつく。どうもこのM2という店はフジファブリックのボーカルの志村さんがよく来ていた店らしい。フジファブリックのフジは富士吉田と関係があることを初めて知る。
プロペラ機が飛んでいる。
棚にささった漫画をとって読む。あくびをはなつ。時間が止まっているような気がする。
ラジオからゆったりとした音楽が流れてきたのが意識に入ってきた。
茜色の夕日眺めてたら
少し思い出すものがありました
晴れた心の日曜日の朝
誰もいない道 歩いたこと
うーん、えっとなんの曲だっけと3秒くらいかんがえて、あ、フジファブリックじゃんと気づいて鳥肌がたった。偶然入った喫茶店がボーカルの思い出の喫茶店で、なおかつ偶然ラジオからそのバンドの曲であるところの茜色の夕日がながれてきたのだ。天文学的確率だ。
茜色の夕日眺めてたら
少し思い出すものがありました
短い夏が終わったのに
今 子供の頃のさびしさが無い
耳を傾ける。朴訥とした声が富士吉田の片隅で響いている。名曲が輪をかけていい曲に聞こえる。今年の夏も終わってしまった。梅雨が長かったから本当に一瞬で夏がすぎていってしまったな。茜色の夕日はただ淡々と流れていた。きっとこの瞬間をずっと忘れないのだろうなと思った。
M2を出て散歩をする。新世界 乾杯通りなんていう洒落た道がある。
くすんだ壁がつづいている。
愛人……
もう店はやっていなさそうだけれど、何かがドアノブにささっていた。
また味わい深い。
路地を歩いていると、フジファブリックの曲って、富士吉田のしんみりした景色がはぐくんだんだなと思った。地元でもないのに、なんだか地元にいるような気がしてきて、昔の悲しかったこととか、過ぎ去っていったいろいろなことを思い返してしまった。旅行に来たのに無性に悲しくなってしまった。
夜になる。
乾杯通りはさらに怪しげになっていく。愛人が赤らんでいる。
どん詰まりの袋小路。
Bar セクシー。今はもぬけの殻だ。いつごろまで営業していたのだろう。
小学生が肝試しでもするのかな…
さようなら富士吉田。今度は新世界乾杯通りで酒を飲みたいなと思う。
疲れてしまったので、駅までタクシーに乗ることにした。タクシーの運転手は、僕は昔、観光バスの運転手でね、と言った。
「日本中を走ったね。客が入る前に一番風呂に入ってね。すぐに寝て、また朝、誰よりも早く起きて朝風呂に浸かるんだ。日本中でそんなことをしていたね」
「素敵な生活ですね」
「伊豆のホテルの露天風呂から見た夕焼けが忘れられないね。山梨県民にとって海は特別だね。海がないからやっぱりね。今は地元に帰ってタクシーやってるけどね。なかなか悪くはない毎日だったよ」
「僕も埼玉で育ったんで、海というのはなんだか遠くて特別な感じがしますね」
「吉田のうどんもなかなか悪くないよ。日本中のを食べたけどね。はい、じゃあ1800円ね」
なかなか悪くないねが、おっちゃんの最上級の褒め言葉であるようだった。