”楽しい事なら 何でもやりたい
笑える場所なら どこへでも行く”
青空、ひとりきり – 井上陽水
「来週大分にいくんだよ」
仕事をやめ、ここ一年ほどニート生活を送っている大学の先輩がLINEを送ってきた。
「へえ、何をしに?」
「田んぼだよ、田んぼ。大分には日本の田んぼ界隈において、極めて重要なおかつ美しい田んぼがあるんだよ。これは行かざるをえないんだよ」
先輩はニートであり田んぼオタクであった。どこかに出かけては田んぼを撮ってきて、じつは最近こんな写真を撮ってねと、なんでもない田んぼや鄙びた夏の一コマであるところのあぜの写真などを嬉々としてを見せてくれた。そういう人である。
「田んぼもなかなか奥が深いんですね」
「じゃあ、大分で待ってるから」
「大分……」
「待ってるから…」
「田んぼ……」
「じゃあ、そういうことでよろしく…」
それが、木曜日のことであった。
土曜日の昼、僕は大分にいた。21世紀は移動の革命の時代だと思う。LCCは世界をぐんと小さくしている。わずか数千円で暇を持て余して限りない体を、ひょいと千キロ近く移動することが可能なのである。少しの好奇心と、数時間の残業で僕たちは、海を越えることができるのである。
先に大分入りしていた先輩と合流し、大分は杵築にある哀愁を絵に描いたような小さな食堂でご飯を食べることにした。高菜焼肉定食である。
「で、なんなんですか、その田んぼというのは」
目を細めつつ味噌汁をすすることから始めた。僕は、味噌汁が、小分けになっている味噌汁のもとが、湯でとかれたものであることであることを察知した。
「大分の豊後高田という街にね、田染荘(たしぶのしょう)という田園地帯があるんだけど、この田染荘は日本の田んぼ好き界隈にとっては極めて、そう、極めて重要な意味があるんだよ」
「はあ。田染荘ですか。聞いたことないですね」
「日本の田んぼって四角いでしょ。だいたい」
先輩は箸をとんかつをつまみ上げた。
「言われてみればそんな気もしますね」
僕は高菜焼肉定食を食べながらあいまいに返事をした。
「日本の田んぼっていうのはね、基本的に、戦後に一気に形が変わっていったわけ。なんでかというと、トラクターとかコンバインとかで稲作をするようになるでしょ。生産効率をあげるため機械で処理しやすいような形に田んぼがだんだんと変わっていったんだよね」
「なるほど!田んぼも近代化しているわけですね。それはなかなか興味深いですね。なんとなく田んぼの形なんて昔から四角いものなのかと思ってました」
僕は田んぼの”田”はまあわかるとして”んぼ”とは一体なんなんだろうとかそんなことを頭の片隅で考えながら言った。
「で、田染荘というのは、なんと平安時代の頃からほとんど変わっていない田園風景がのこっていると言われている日本でも極めて珍しい土地なんだよ!!平安時代だよ、きくち君、このすごさが分かる?」
先輩は少し声を大きくした。
「なるほど…つまり、普段目にする田んぼというのは多くは戦後形を大きく作り変えられたかなり制度的な田んぼであって、僕たちは、これから平安時代から続く、いわば田んぼの中の田んぼとでも呼ぶべきものを見にいくということなんですね」
「そうそう、そういうことだよ。話がはやいじゃないか。田染荘の偉大さが分かったならまあいいよ」
先輩は典型的おたく早口話法で田染荘の尊さを解き終えると黙々とご飯を食べはじめた。僕も黙々とご飯を食べて、会計をして、レンタカーに乗り込んだ。
杵築は城下町である。瓦造りの家がたくさん残っていよい街並みを形作っている。いったいどうやって杵築を知るのだろうか、外国の人たちが観光できているのをちらほら見かけた。杵築の城下町はサンドイッチ型をしている日本で唯一の城下町であるらしい。どの辺がサンドイッチなのかは全くわからなかったけれど、確かにやたらと坂がありなんとも不思議な形をしていた。
先輩とのただの合流地点でしかなかった杵築はなかなか魅力的なだった。
ゆず的な柑橘系はやたらと黄色くたわわに実っていたり。
猫が風来坊の面持ちで気持ちよさそうにうずくまっていたり。
猫を見ていたら、日本語を巧みに操る外国人牧師に話しかけられ、協会の中を案内してもらったり。
「この協会は武家屋敷を改装して作ったんですね。ミサもやるんですが、だいたい2〜3人しか来ないんですね、寂しいですね。杵築はいい街ですよ。住めば都です」などなど牧師さんに説明を受けたり。
「若いうちは、いいですか、旅をしなくてはいけませんね、ぜひイタリアにも行ってみてくださいね」と牧師さんに見送られ、土産にキレートレモンとおーいお茶をもらったり。
杵築はそういう、のんびりとした出会いのあるよい街なのである。
田染荘は杵築からそれほど遠くない場所にあるようだ。
先輩はGoogleMapをみて、むむ、田染荘(たしぶのしょう)のふりがながたぞめになっている!これは由々しき事態だ!とスマホの画面にむかって憤っていた。僕はアクセルを踏んで快調に杵築の道を走りだした。
杵築は比較的活気がある街のように見えた。交通量もそこそこあるようだ。
「あ、そういえば、先輩と合流する前に、杵築を走っていたらちょっとうまそうな唐揚げ屋をみかけたんですけど、買っていきません?」
「たしかに大分といえば唐揚げというようなところがあるからね。それはいい提案かもしれないね」
「田染荘でその田んぼを見ながら唐揚げを食べたら、もしかしてこれはすばらしいことなのではないですか!」
ふじや からあげ店に車をつけた。僕は店名のフォントで確信をした。これはきっとうまい唐揚げが提供されているに違いない、と。飲食をなりわいとする店に置いて、店構えは殊の外重要なのではないかと思う。歴史を経てきたことを感じさせる渋フォント、微妙にまばらな文字間隔、この店の唐揚げがうまくないはずがない。それは確定的事項なのである。
店に入ると地元のやや堅物そうな、言い換えるのであれば、泉谷しげるまたは坂上忍タイプの老人が、なんということもなく、じゃ、唐揚げ1.5キロちょうだいと注文しているところであった。粋である。唐揚げ1.5キロ。重さで唐揚げを注文しているところなど初めて見たのでので僕は大変な感銘を受けた。これが唐揚げ先進特区大分スタイルの注文法なのだ。
からあげが奥のほうでシャーという淫靡な揚げられ音を放っている。おいしい音だ。唐揚げ先進特区の直観的キログラム注文方式に憧れを感じながらも、昼ごはん直後で食欲も減退していた我々は、日和見主義的唐揚げ八個注文をすることにした。
スーパーで売っている、揚げられて何時間たったのかもわからない、しなしなの極北の唐揚げですらそこそこ美味しいわけあのであって、もはや唐揚げ専門店の揚げたて唐揚げなんていうのは、うまいことは食べる前からほとんど確定的に明らかであった。
店員さんから揚げたての唐揚げを受け取り車に戻る。
すみやかに紙袋を開けると、たわわな唐揚げが顔をのぞかせた。ボン、ボン、ボボンといった感じで唐揚げが転がっている。ぼくはそのぶつを一直線に口の中に放り込んだ。
「うわ、うま」
僕は深々と肉を噛むことに徹した。
「うま!これはうまいな……」
先輩も、ただただ肉を口に放り込んだ。
紙袋は揚げたての唐揚げの熱を指先にダイレクトに伝えてきた。
「肉がぷりっぷりですよ。シンプルな味付けなのが「いいか!?鶏肉を食べさせているんだぞ!?」という意志を感じていいですね」
「やはり唐揚げなのだなあ…」
「やはり、唐揚げなのですね……」
僕たちは昼下がりの午後、小さな光悦の中にいた。
「きくち君、君の提案はかなり優れていたと言っていいよ」
「これ持って、田染荘に行けば、完全に完璧ですね。」
「いや本当だよ。すぐに行かなくては」
「じゃあ、あとの唐揚げは残しておいて出発しましょうか」
唐揚げ店を後にした。 空調がまわり始めると、車の中は唐揚げのにおいが一気に充溢した。大分についたばかりの頃は空に雲がかかっていたけれど、青空の割合がかなり大きくなってきていた。
「もしかして、今日、僕がずっと運転するんですか?」
「いやいや、まさかそんなことはないよ。まさかね。」
「本当ですか」
「それはもちろん、今日は一旦おいておいても、明日は僕が運転するからね。僕が今まで嘘をついたことがあったかね。まったくひどいね。いつもきくち君は僕を嘘つき呼ばわりするんだからね」
先輩は真面目な顔を作って大変に軽い言葉を並べ立てた。強烈な極彩色のデジャヴが脳裏で明滅した。ああ、これはきっと運転しないのだろうなと、しみじみとかつ深々と理解した。
比較的走りやすい道が続いていた。里山的景観が広がっている。何も気にせずパーっと走り抜けたい気分になる。前後に車がいないので自然とアクセルを踏み込みがちになる。人間には、何も気にせず、マックスでアクセルを踏んでみたいという欲望が心の奥底につねに潜伏しているものなのではないかと僕は思っている。
「ちょっと、右によりすぎじゃないかな、きくちくん」
先輩は運転に厳しい人であった。
「いやあ、びっくりしたよ、運転気をつけてね」と言って先輩は窓から外を眺めていた。稲刈りの終わった田んぼがわびしげに広がっていた。
「のどかですねえ」
僕は大分の牧歌的景観をぼんやりと眺めていた。
「あ、あ!あれはなんだ!!ちょっとまって!」
「なんですか!いきなり!」
「あそこに神社があったんだよ。しかもなんだか優れて胡乱な雰囲気のある神社だったんだよ」
先輩はきりっと視線をカーナビに目を落とした。
「きっとこれだな。鶏神社というらしい」
「鶏ですか?不思議な神社があるもんですね」
「これはたぶん行かないとまずいタイプのやつだよ、きくちくん」
「そうなんですか……ただの田舎の神社じゃないんですか?」
「まあまあ、試しに行ってみよう」
僕はただの田舎神社にいったい何をしに行くんだという巨大な疑念を抱えつつハンドルを左にきって、田畑の間を細く縫うように進む道に入っていった。
「うーん、あれか、興味深い。早く止めてきくちくん」
先輩は、田んぼオタクであるとともに、敬虔な神社オタクでもあった。まあ、たしかに、その二つな似たカテゴリであるようにも思われた。
先輩は行くと言い出したら、断固として行くタイプの人間であったので、こういう場合には反論をしても何の意味もないことを知っていた。僕は正直、一ヶ月に一人、人がくるかこないかの田舎の神社に行って、いったい何になるのだろう……と思っていた。
鬱蒼とした木々の戯れの中に神社はあった。
「おお!きくちくん、これは神仏混淆の典型的神社だよ。いい神社じゃないか!」
やはり、自分の直感は正しかったのだと言うような調子で先輩は言った。
「寺と神社がくっついてるってことですか?」
「さすがのきくちくんでもそれくらいのことは分かるんだね」
先輩は小馬鹿にした調子で言った。神社には案の定だれもおらず、冬の日差しがただ心地よく差し込んできていることだけが判明した。
「何で、神仏混淆だと分かるんですか」
「力士像と狛犬が一緒に立っているでしょ。寺は力士像、狛犬は神社だからね。」
「ああ、たしかにそうですね。言われてみれば狛犬は神社って感じしますね」
「きくちくん、君はブログで僕のよくない面ばかりを書いている節があるから、こういう聡明な面も書いておくんだよ」
はいはい、任せておいてくださいと僕は生返事をした。ということで、いちおう、先輩が田んぼ、神社について、造形が深いことをここで明確に宣言する必要があるのだと思う。そう、先輩は、聡明なのだ。
「なんか石碑が立ってますよ」
「いやあ、すごいね、1300年前からあるんだね。なかなかのもんですよ」
「たしかに1300年前からあると聞くと、とたんにすごい気がしてきますね」
「歴史を感じるよ。悠久の歴史だよ。いやあ、素晴らしいね」
神社は限りなく静かだった。葉擦れの音だけがかすかに響いていた。外に出ていると指先がつんと冷えた。
「何でそんなに神社が好きなんですか?」
「いい?まず、僕たちの祖父母より前の世代なんかだとね、その代々の先祖はもう軽く何百年と、いい?何百年とだよ?同じ地域に暮らし続けていたわけ。親も、その親も、その親の親も、ずっとね。近代化の中で、ここ数十年で人間がやたらと大移動していて、僕たちは、生まれ故郷を離れて生活しているというその異常事態に何とも感じなくなっているけど、これは驚くべきことなんだよ。昔は、ある人間が生まれたら一生のほとんど全てをその土地で過ごしたわけだよ。そのへんわかってる?」
「まあ、たしかに、僕も親の代から埼玉ですけど、その前はずっと何代にもわたって西の方で暮らしていたはずですね」
「とするとだよ、この神社なんか歴史が1300年ほどあるわけだけど、この神社が1300年ずっとこの地域の人々の生活の中心にあったといっても過言ではないわけだよ。そう考えると、こうやって熱心かつ具さに神社を観察し、人々の暮らしに思いを馳せることはほとんど義務であると言っていいわけだよ」
「なるほど……」
「結論をいえば、君はもっと神社に興味を持って然るべきということだね」
「いや、ないわけじゃなんですよ……先輩の説明を聞いていたら、もしかすると興味を持つべき対象なのではないかという気がしてきましたよ」
先輩の圧倒的熱量にやや絶句しながら言った。先輩は、やっぱりこいつは本質的にはなにも分かっていないような気がするなというような顔をしていた。僕も神社に熱を上げる日が突然やってくるのだろうか。
先輩は一人で神社の隅へ歩いていき、なるほどなるほど、これは200年くらい前の石塔だな!こっちは文政と彫ってある!と歓声をあげていた。その様子を見ていると、他の追随を許さない圧倒的オタクこそが、真の意味で人生を謳歌するのかもしれないな…と思った。
車に戻り、牧師にもらったキレートレモンをのんで口をすぼめ、アクセルを軽く踏んでのんびり走っていると、先輩が何かを思い出したような表情を浮かべた。
「きくちくん…… 僕たちは、磨崖仏を見に行かなくてはならないのではないかね!?」
以下ダイジェストでお届けする。
山道を登っていく。
「これ、いったい何分くらいかかるんですか……」
「いやあ、ちょっとだよ、ちょっと」
そして冗談のように続いていく石段。85歳は過ぎているのではないかと思われるおばあちゃんが途中で息も絶え絶え苦しそうにへたり込んでいた。信仰が問われていると言っていい……
岩肌に掘られた巨大な仏像。
「いやあ!これはすごい!立派だよ!」
「……そうですね…ただ…疲れましたね……」
「きくちくん、これは国東塔を見に行かなくてはならないのではないかね!」
「なんですかそれは」
「ここの地域にしかない石塔のことだよ」
「石塔ですか、つまりは石ですか」
「そうだね。まあつまりはそうだね」
真木大堂にやってきた。
先輩は、石塔のパレードに興奮気味にカメラのシャッターをきっていた。
「これはすばらしい石塔だ」
「いやあ、すばらしい。並び立っているではないか」
「趣深い」
僕は正直石塔の良さについてはほとんど理解不能だったのだけど、まあ、先輩は楽しそうだしよしとしようと思った。
そういえば、真木大堂の近くには謎の不気味カカシが大量にいた。
深刻な謎である。
「きっとこれは、過疎化していく街に対抗すべく作られているんだろうな」と先輩は言った。過疎化に対抗してカカシが作られるというのはなんだかよくいえばファンタジー、悪くいえばオカルトな世界である。
話が、おそるべきほどに胡散霧消、散逸かつ逸脱しつつあるので、強引に話を元に戻すと、僕たちはそもそも、日本の原風景をのこす素晴らしい田んぼなるものをみにきていたのだった。
「先輩、そろそろ田染荘に行かないと日が暮れてしまいますよ」
「いやいや、この寄り道は全て計算のうちだからね。むしろ今からいくくらいがちょうどいいんですよ」
「そうなんですか?さすがですね……たしかに、夕暮れの時間ですね」
ということで、僕たちは再び車で田染荘を目指して走りはじめた。
「先輩もそろそろ運転しますか?」
「いや、まだ少し早いんじゃないかな」
先輩はよくそう言って運転を回避していた。
*******
「ここが噂の田染荘ですか」
「そうだよ、ただし、ここにいては田染荘の美しい形が分からないから、今からあそこを登っていくから」と言って小高い山のような岩のような何かを指差した」
「あそこに何があるんですか」
「夕日観音というのがあってね、あそこから見る田染荘が美しいんだよ」
田染荘のあぜ道を僕たちは歩きはじめた。山の合間に田んぼが連なるようにして広がっている。
「 たしかに、なかなかいい雰囲気ですね。稲はもう刈られちゃってますけど」
「夏に来ると水が張っていて、また美しいんだけどね、夏はあつくてかなわないよ」
「蚊もいるでしょうしね。でもきっと夏は青々としていて綺麗なんでしょうね」
「ところがしかしね、秋の寂れたかんじもこれがまたいいんだよ」
あぜ道を通り抜けて山の麓にやってきた。
「これ登っていくんですか……これは道なんですか?これを道と呼んでいいんですか?」
草がおいしげり過ぎていて、道らしきものはおぼろげな痕跡を残しているに過ぎない状態だった。
「こんなのは序の口ですよ」
草木を掻き分けながら、先輩は先陣を切って歩き出した。
「まじで獣道じゃないですか……」
いったい週に何回この道を通る人がいるのだろう。この生い茂り方からいってほとんど人が来ていないのではないかと思った。草の種がこれでもかと服にくっついてきた。勾配は思ったよりも急であった。
五分ほど山を登っていると、分かれ道を示す看板が現れた。いや、分かれ道の痕跡の看板と言った方が正確かもしれない。
「たぶん、方角的に夕日観音に行くと田染荘が見えるかんじですよね」
「そうだね、ただ、朝日観音もなかなかいいものだから先に朝日観音の方へ行こうか」
また道無き道を上がっていくと、山はむき出しの岩に変わっていた。写真だとよくわからないかもしれないけれど、ちょっと笑っちゃうくらいにめちゃくちゃ岩だった。
「これ、転げ落ちたら普通に死にますね……」
「まあ、そういうこともあるのかもしれないね」
「冗談みたいな道ですね……」
「黙って歩くんだよ、きくちくん」
今度は岩をくだっていく。
ただただ道が険しい。一歩踏み外すと華麗に数メートル転落するようなタイプの道である。
「昔の人はすごいところに仏を祀っていたんですね。もっと平穏なところに祀って置くべきではないんですかね。何でもかんでも厳かな場所にすればいいってもんでもないですからね」とか何とか愚痴をこぼしていると、ついに朝日観音が現れた。
「おお!ついにきたよ!」と先輩は言ってすばやく観音の方へ向かっていった。
岩が内側にへこんでおり小さな観音像がちょこんと立っていた。
「こんな訳わからない場所に祀られているとなんだか尊いような気がしてきますね」
直前になんでもかんでも厳かな場所に置くなといった口で、僕はなんだか尊いとか口走っていた。
「昔の人はこんなところで修行していたんだろうね。信仰だね……」
地元のヤンキーが書いたみたいないたずら書きが彫ってあったりした。
「でも、ここから朝日をみたら確かに綺麗でしょうね」
「そうだろうね。登ってきてよかっただろ?わかってくれたならいいんだよ。じゃあ、いよいよ夕日観音から、田染荘を見ることにしよう」
「おお、そうでしたね。あまりに朝日観音への道が険しかったので忘れかけていました。元はと言えば田染荘をみにきたんですもんね」
「そうだよ、早く行かないと陽も暮れるからね」
そうして僕たちはまた道の名残を歩きはじめた。
また草木を掻き分け、宙を飛ぶ謎の虫を叩き落としながら五分ほど歩み進んでいくと、ぱっと視界がひらけた。
夕日が山の裏から強大な力で光を放っていた。ほとんどハレーションである。眩しくて目の奥にじんじんと痛みを感じた。光は田んぼに鋭く影を落としていた。田んぼはパッチワークのように山と山の間を埋めていた。
「うわー」
僕は大層まぬけな声を発していた。
「すばらしいね」
先輩も感慨深そうに言った。
素朴ながらも力強い景色だと思った。田畑と山と光が美しく折り重なっていた。ただただ静かな空間がひっそりと存在していた。。
「夕日がいい感じですね。タイミングが良かったですね」
「平安時代から景色が変わってないんだからなあ。一回くらいみておくべきだと思わない?」
別の向きの景色。
「そうですね、田んぼを見に行こうと言われた時はなにを言っているんだと思いましたけど、こうやって見てみると、はるばるやってきてよかったです。むかしどこかで見た千枚田は数百年前くらいのものでしたね。平安時代とかなると千年近く前ですもんね」
千年だ、途方もない時間だなと思った。
「わかってくれたならね、まあいいんだけどね」
写真をとったりぼーっとしたりしながら三十分ほどそこに立っていた。
観音像も暮れていく夕日をみていた。
特等席を毎日独り占めしているのだ。
田染荘の何度目の冬だろう。
食べるはずの唐揚げは車の中に忘れ去られていた。