ハイボールを3杯飲んだ。そして風呂に入った、夢心地の中にある文章であることを事前にお伝えしておく……
むかしから、音楽をやっている人にはふたパターンのタイプがあるのではないかと思っている。ひとつは、音がなっていることが楽しい人、もう一つは、何か伝えたいことがある人である。かつてフリッパーズ・ギターというバンドがいた。小山田圭吾と、小沢健二というメンバーが二人でやっていたバンドだ。
このやたらとざっくりとした私的な二分法に当てはめると、小山田圭吾は音がなっていることが楽しい人だ。フリッパーズ・ギターというバンドが解散したのちに、小山田圭吾が始めたコーネリアスというバンドの音を聞けば一目瞭然だと思う。歌詞はどんどん消えていき、最近の曲は記号的で、幾何学的で、リズム豊かな楽曲であふれている。
翻って小沢健二はというと、
どう考えても、何かをつたえたくて、音楽をやっている人である。昨日、小沢健二の出ていたラジオを聞いていたら、「僕は文学みたいなものの延長で、音楽をやっている」と言っていたので、おそらく、自分がぼんやり思ったことはそんなに間違ってはいないのではないかと思う。
そんな好対照といえる、二人が、何の因果か同時期に集まり、楽曲制作していたバンドがフリッパーズ・ギターなのだけど、このバンドは、大変にシニカルなバンドであった。本当のことを隠したくて嘘をつくし(恋とマシンガン)、本当のこと何も言わないで別れるし(カメラ・カメラ・カメラ)、決め台詞は、”分かりあえやしないってことだけを分かりあうのさ”なのである…… この曲に至ってはタイトルが、すべての言葉はさようなら。なんとかなしい。
フリッパーズギターが解散した後、小沢健二はソロ活動を開始する。小山田圭吾という枷(とか言ったらあれだろうか)が外された小沢健二は大変雄弁であった。
”ありとあらゆる種類の言葉を知って 何も言えなくなるなんてそんなバカな過ちはしないのさ”
”意味なんてもう何も無いなんて 僕が飛ばしすぎたジョークさ”
本当のことなんてないから、話し合うことなんてむりだし、人と人とは分かり合えないのさといっていたと思いきや!
そして、天気読みでは、
「本当はなにか本当があるはず」
天使たちのシーンでは
「神様を信じる強さをぼくに 生きることをあきらめてしまわぬように」
きっとこの世界には大切なものがあるはずで、そのことを信じる強さがほしいというとかそんなかんじ?
小沢健二が好きな有名人のひとりにタモリがいる。数ある楽曲の中でもお気に入りなのが、「さよならなんて云えないよ」らしい。(すべての言葉はさようならなんて寂しすぎるよねということなのかな)
タモリはこの一説が好きで、生命の最大の肯定と語ったとか。
”左へカーブを曲がると 光る海が見えてくる僕は思う
この瞬間は続くといつまでも”
光というのは、小沢健二のキーワードなのではないかなと思う。世界には大切なことがあって、それって輝く何かだよねみたいな。
恋の次第を盛り上げたいよ七色に輝く時の中 (東京恋愛専科)
この愛はメッセージ 僕にとって祈り 僕にとってさす光(戦場のボーイズライフ)
これ以外にもいろいろとあって、とにかく、小沢健二の歌詞は光っているのだ。
19年ぶりにシングルが発売された。なんとながい沈黙だろうか……19年前といえば、小学生のころである。気が付けば、あくせく働く労働者になっているではないか……
このCDには、流動体についてという曲と、神秘的という曲が収録されている。歌詞を読むと、むかしの小沢健二と少し違うなという感覚があった。
本当はなにか本当があるはずとか、神様を信じる強さを僕にという神秘的なものへの距離感から、結構素朴に神という感覚を信じるようになっている気がした。オザケンは、ある光じゃなくて、光あれと書くようになった。
— きくち (@zebra_stripe_) 2017年2月21日
ある光でJFK空港にいた、小沢健二は、流動体についてで羽田空港に帰ってきたようだ。
羽田沖 街の灯が揺れる
東京に着くことが告げられると
甘美な曲が流れ
僕たちはしばし窓の外を見る
そして、中盤では、
神の手の中にあるのなら
その時々にできることは
宇宙の中で良いことを決意するくらい
とかかれている。
むかしのシニカルさは消滅し、世界は価値があるものなんだというかなり力強い肯定を感じる。本当は何か本当があるはずではなく、神の手の中にいて、”ある光”という間接性はうすれ、神秘的の歌詞では光あれと書かれるようになった。
ところで、僕は、ユーミンが好きなのだが、むかし彼女のインタビューを読んだら、「私は、水が揺れるたびに底で揺れる影の美しさとか、海に反射する光の粒の美しさが愛おしくて歌詞を書いている」というようなことが書いてあった(意訳かつうろ覚え)
あと、宮崎駿はインタビューでこんなことを言っていた。
「子どもたちに「この世は生きるに値するんだ」ということを伝えるのが自分たちの仕事の根幹になければならないと思ってきました」
「世界は美しいって映画を作るんだよね。気が付かないだけで世界は美しいよって。そういう目で見たいだけなんだよ」
神というと仰々しいけれど、小沢健二も、日常にまたたくようにあらわれる神秘的な瞬間を通して、宮崎駿よろしく、この世は生きるにあたうのだ、自分の人生には価値があるのだとわりと素朴に思えるようになったのかなあと思った。
”誓いは消えかけてはないか 深い愛を抱けているか
ほの甘いカルピスの味が現状を問いかける”
問いかけはこう答えられているようにおもう。
”無限の海は広く深く でもそれほどの怖さはない
人気の無い路地に確かな約束が見えるよ”
茫漠とした世界で、確かなものがみえるようになったのだなあ。
結婚して、子供ができて、いろんな形でありえたかもしれなかった人生ではなく、今この人生を生きているということの力強さが「流動体について」にはあふれている。
”もしも間違いに気が付く事が無かったのなら
並行する世界の僕はどこら辺で暮らしてるのかな
平行する世界の毎日 子供たちも違う子たちか”
こうであったかもしれないことを間違いといえるのはかなり強いなあ…… でも、小沢健二といえば、昔から、やたらといろいろなことがあけすけな人であったような気もする。昔のことはリアルタイムではしらないけれど…… 自分は少なくともいまのところ、こんなに力づよく、色々おっけーとおもっていられないようなきがする。
こういう立場って危ういよねという批判は非常に容易にありうるとおもうし、今後どうなっていくのかは分からない部分があるけれど、一人の人生として、小沢健二がこういう歳のとり方をしたのはなんというか素敵なことだなあとおもう。(やたら偉そう…)
この曲が、今までの曲のように、年単位で聞き続ける曲になるかは、正直わからない。今のところは毎日とてもよく聞いているし、テレビもラジオも新聞も欠かさずチェックしている。アルバムもぜひとも出してほしいと思っている。
ながながと適当にとりとめもなく書いてきたけど、そういえば、犬は吠えるがキャラバンは進むのライナーノーツにこんなことが書いてある。
熱はどうしても散らばっていってしまう、ということだ。そのことが冷静に見れば少々効率の悪い熱機関である僕らとかその集まりである世の中とどういう関係があって、その中で僕らはどうやって体温を保っていったらいいのか?などなど悩み盛りの若者らしく様々考えていたりする一方、それにしても友達はうざったそうに鏡を見てるし、どこかへ出かければ楽しいし、夜更けにリズムやメロディーはほんとに心に突き刺さる。
まだ、自分は20年まえの小沢健二のほうが親和性が高い部分があるなと思う。それなりにはいろいろなことを選択しているのではないかと思われる、20年後の僕は、この新曲「流動体について」を聞いていたりするのだろうか。