前:上海でおなかが壊れた僕たちの、心のベスト10、第1位はこんなトイレだった。中国廃墟潜入編⑨ - 今夜はいやほい
おなかが壊れていた。それも三人同時にだ。にもかかわらず、僕たちは走らなくてはならなかった。出発まであと三分だった。搭乗口は空港東端の二番口だった。ロビーを左に曲がり、シャツを膨らませ、走っていく。人気を失ったプードン空港は夜の冷蔵庫を思わせる静けさだった。窓ガラス越しにのっぺりとした夜の飛行場が映っていた。
加藤が先頭をきる。唯一おなかを壊していていない加藤は荷物も少なく軽快に走った。僕は遅れてしまわないよう高速で足をまわした。傍では清掃のおじさんが大きなあくびを宙に放っている。お腹が痛いにもかかわらず、僕たちは上海でほいほいご飯を食べた。愚かにも、17時に小籠包を食べて、19時から北朝鮮の国営レストランで平壌冷麺を食べたのである。致命的愚かさである。
北朝鮮のビールも飲んだ。ふつうのビールだった。人生ではじめて北朝鮮の人というのを見た。チマチョゴリを着て、ニコニコと接客していた。チャイナ?と聞かれた。ジャパンと答えた。そうなの、というような表情をして、冷麺をぐるっと混ぜると、特段の感情もなさそうに去っていった。北朝鮮だろうが何だろうが、働いているのは普通の人なのだなあと思った。当たり前なのだが。
走ると、平壌冷麺がおなかの中で踊るような気がした。不穏な鈍痛は横浜駅に改築工事がごとく、小腸と大腸で連鎖的に続いていた。腹痛のビックウェーブが来ないことを祈って走った。サムスンの巨大な液晶テレビを十五枚ほど見送ると、二番口が見えてきた。ああ、間に合ったのだという安堵が体を包んだ。残り、二分だった。
「あれ…誰も… 誰もいないですね……」
加藤は息を切らしながら言った。
オネットは油をひたいにうかべ、ふーと息を吐いていた。彼も腹痛と戦っているようだった。
「もう…… 時間、ギリギリだからな。みんな…乗りおわってるんだよ」
僕はぶつぎりの返事をした。ああ、チケット出さないととバッグをあさっていると、加藤が声を張り上げた。
「変更!?」
僕とオネットもオウム返しのように、「変更!?」と加藤の発言を反復した。搭乗口が二番から二十八番に変更になったという告知がディスプレイに張り付けられていた。肩を上下させながら、三秒ほど立ち尽くした。なるほど、変更したのね。しばらく目の前の情報とさしせまる危機が頭の中で結びつかず、体が動かなかったのである。
「走って!」
加藤が号令をかけた。僕たちは来た道を走りかえった。
「なぜ、こんなに腹が痛いのだろう」
僕は嘆きの表情で言った。シャネルの店の角を左に折れた。
「腹を痛めている候補がありすぎて、特定できないですね……」
山田は体調の悪化から、うすくなった表情で言った。
朝食で食べた屋台の肉まん、砂をかぶったレンゲ、宿のおばちゃんからもらったムラサキ貝、夕飯に食べた不必要にまずい鍋が僕の頭を土足で駆け巡っていた。 八番搭乗口、足に乳酸がたまってきた。十五番搭乗口、僕とオネットが後れを取り始めた。お腹はなぜ、痛くあってはならないときに痛くなるのだろう。二十二番搭乗口、耳に入ってくる音が遠くなってきた。二十八番搭乗口、グランドスタッフのお姉さんが微笑んでいた。
息の苦しさを抑え、僕たちは万感の意で搭乗を讃えあった。さまざまな熱を抱えて、上海を後にした。