移動船で僕は老婆に盛大に覇座された。 中国廃墟潜入編⑧ - 今夜はいやほい
市内までバスに乗り継ぐ必要があった。バスターミナルは人でごった返していた。
「おなか痛いんだけど……」
僕は、腹に鈍痛を感じていた。
「山田も痛いみたいです」
加藤はひょうひょうとそう言った
「僕も痛いですね」
オネットも腹痛を抱えていた。
加藤以外の三人がほとんど同時に盛大にお腹を崩壊させた。
「これから、バスじゃないですか……」
オネットは悲観的な口調で言った。
「途中で降りれないからなあ……波が来たら死ぬしかないな……」
僕は、ちこくぎりぎりの電車に乗ったにもかかわらず、おなかが痛くなってしまった時の絶望的なシーンを頭で反復させていた。
山田はかなり深刻に体調が悪そうで、しばらくすると言葉すら発しなくなった。
「まずいねえ」
「まずいですねえ、バスの中にトイレ内ですしねえ……」
「あるわけないですよね…」
「ここは中国だからねえ、止まってもらおうたって言葉もわからないしねえ」
「こまったね……」
そんな会話をしながらバスを待った。
「皆さん大変ですね」
加藤はスマホで地図を見ながら言った。加藤はやたらと地図を見ている男だった。
「加藤君は何ともないの?」
僕は尊敬のまなざしで加藤を見た。
「そうですね、大変申し訳ないのですが、平常運航です」
こともなげに加藤は言った。加藤はいつもこともなげな男だった。
バスは無機質に到着し、僕たちをのせると、無慈悲に出発した。
上海市内まで一時間ほどだった。固い座席に腰かけた。バスはガタガタ揺れた。神に祈る気持ちで、風力発電の風車がぐるぐる回っているのを見つめた。僕の腹痛とは、全く関係なく、バスはがたがたぐんぐん進み、風車は快調に回転し続けていた。
奇跡的達成として、僕たち3人は腹痛のビックウェーブを各々回避することに成功した。市内についたときは、安堵の感が体を包んだ。よかった、これで何もかもうまくいったのだと。
いったい、何が原因だったのだろうか。僕たちには心当たりが多すぎた。朝食で食べた衛生状態不明の肉まんやスープたち、夕飯のまずすぎる鍋、過度な飲酒、今朝のおばちやんが向いてくれた紫貝。どれかのせいかもしれないし、すべてのせいであるのかもしれなかった。
そのあと僕たちは、10分歩いたらトイレ、10分歩いたらトイレという調子で上海市内を観光した。
「トイレ…そろそろトイレじゃないかな……」
僕が腹をさすりながら、おもむろに言い出す。
「奇遇ですね、僕もトイレだとおもいます」
オネットが言った。
「また、トイレ行くんですか、じゃあその百貨店行きましょう」
加藤は浅薄な感じに言った
「……」
山田かわらず沈黙していた。どうやら山田は熱もあるようだった。
今回の旅行で、ドアがないトイレ、ハエが大量発生しているトイレ、便器からこぼれまくっているトイレ、水路が一通につながっているトイレなどなど、中国の洗礼と言わんばかりのいろいろなトイレを目にしてきた。トイレにはなにも期待していなかった。水風呂に足をつけるときのような虚心でトイレに入った。百貨店のトイレは、清潔、抗菌、ひと時の静けさを醸す、うつくしきトイレであった。なんていいトイレなのだ。僕は、そのトイレにおおいに感動したのだった。
「このトイレは、きれいだった。ベスト・トイレ・イン・上海だなあ」
僕は、上海の硬質な夜の光りを眺めながら、つかの間の腹痛からの解放に歓喜した。
「確かにこのトイレは優れたトイレでしたね」
人ごみの路上でオネットはいつもの調子で低温を響かせて、ホッホッホッと笑った。アジア的喧騒がよく似合うやつだなと思った。
川沿いには摩天楼がそびえたっていた。きらきらの景色だった。しかし同時に、おもちゃみたいな嘘くささがあった。夜景を眺めていると、目の前を、白いドレスをまとった、長身の美しい女性が、奇妙に高いハイヒールでカツカツカツと鳴らしながら歩いて行った。手には溢れる落ちるような大きな花束を抱えていた。そんな光景とともに、ビルはぎんぎんに発光し、人生はしょせんはショーなんだぜとうそぶいているような気がした。
川沿いはビュービュー風が吹いていた。ぼくは、あんなところで働いている資本主義の頂点的な人たちもちゃっちいものを食べて、おなかを壊し、苦しんだりするのだろうかとすこしのあいだ考えたりしていた。