前 始まりの上海浦東空港、夜霧の南浦大橋、タクシーのメメントモリ 中国廃墟潜入編① - 今夜はいやほい
南浦大橋についた我々は、バスターミナルでチケットを買うために列に並ぶことにした。目的地は上海沖の小さな島の廃村だったので、空港に5時につき入国手続きを済ませ、市内のバスターミナルまで移動し、7時15分の嵊泗行きのバスに乗り込まなければならないという壮絶にタイトなスケジュールであった。チケットカウンターが開く6時30分に開くのだが、小さなバスで定員もあるので、可能な限り早くチケットを取らないといけなかった。僕たちはタクシーが尋常ではない速度で走ってくれたおかげで、無事カウンターが開く10分ほど前には、列に並び始めることができた。朝のターミナルには、混沌的狂騒であふれていた。
「腹が減りましたね」
オネットが口を開いた。オネットは常にマイペースだった。
「いやあ、タクシーがやたらと早かったからよい時間にきましたね」
山田がタバコの煙のタバコを吐いた。
「あのタクシーじゃなかったら間に合わなかったかもしれないなあ」
僕が感慨深そうに言うと加藤は、そうですね、しかし、腹が減りましたねと言った。
「そうだよ、腹が減ったよ、加藤君」オネットは大いなる食欲を持っていた。
「じゃあ、あそこの謎の食べ物買ってきますね」と言って加藤は、待機列を離れ、近くにある屋台へと走っていった。店番のおばちゃんと交渉を始め、それを4つくれと伝えたようだった。
「豆乳のような怪しい液体があるんですけど、ついでに飲みますか~?」と大声でこちらの列に向かって叫んだ。
「怪しいならいらないよ!」と叫び返すと、加藤は小走りで帰ってきた。
ビニール袋からは湯気が立ち上り、お好み焼きのような香ばしい、いい匂いがした。そして袋の厚さなどというのはあってないようなものなので、びっくりするくらいに熱かった。ビニール袋をもつと手がひりひりした。
これがとてもおいしかった。卵と鶏肉とちょっとした野菜が小麦粉の生地に挟まれており、ソースがべちょべちょに塗りたくられている。こういう組み合わせの雑な食べものは大概まちがいなくおいしいのである。
「うまい、あつっ」
「うまい、うまい、あっっつ」などと4人でその上海風お好み焼きをほおばっているとチケットカウンターが開いた。
さすがにこの並んでる人数を考えれば、問題なくチケットをとれるだろうとぼーっと、呑気にだらだらと列に並ぶと、警備員のおじさんがつかつかと歩いてきて、何事かを叫んだ。中国語をよく解さない我々はそれがなんの意味を発していたのかよくわからなかったのだが、その絶叫を掛け声として、中国の人々は、列という概念を解体し右から左から、チケットカウンターになだれ込んできたのである。鉄の丈夫な柵などあってないようなもので、チケットカウンターは人々であふれかえった。
女性が怒号を上げた。意味は分からないので、「触らないでよ、このじじい、なんなのその、わけわかんない帽子、まじセンスないんだけど」めいたことを言ったのではないかと思うのだが、とにもかくにも、それは築地市場も真っ青の怒号だったのである。
呼応するようにおじさんが怒号を上げた。「ああ?お前が割り込んできたんだろ?邪魔なんだよどけどけ、はやくどけ!!!」めいたことを言った。それもまことに正しく怒号なのであった。すると警備員のおじさんがとんできて、再び怒声を高らかに張り上げ、女性の方をぐわんとひっぱった。すると女性は対抗するように天にも昇る怒号をうち上げた。
「なんなんだこれ、中国すごいぞ、列に並ばないというのは本当だったのか。というよりも、これは並ばないどころのさわぎではないぞ。なんなんだこれは。」とぼくは人々に押しつぶされながら言った。それはほとんど乱闘のようだった。
「地獄絵図ですね、ていうかこのチケット変えないとまじでまずいんですよ」と加藤が混沌に打ち消されないように大声を上げると、反対側の列で、男が鉄の柵をがしがしとよじ登り待機列に割り込もうとした。警備員のおじさんはまた、空気を裂くような怒声を上げ、「なにやってるんだ、おい!!!」めいたことを言ったのだった。怒声がすごいため、ほかの列に並んでいる人も大声で話し、周りの人が大声で話すから、よりより大声で話しといった、自己増幅を繰り返し、そのチケットカウンターは信じられないような量の色とりどりの声で満ちていった。
まだ朝7時前である。飛行機であまりよく寝れずくたくたになっていた我々は、その壮絶な光景にただ呆然と絶句したのであった。シェイクスピアのマクベスの有名な一説にこんなものがある" it is a tale Told by an idiot, full of sound and fury, Signifying nothing" この一説はフォークナーの小説のタイトルにも「響きと怒り」として引用されている。かっこいいなあと思っていたのだが、今はその言葉は身に迫った感覚であった。ああ、人々の生活だ、響きと怒りが満ちているんだなどと、ぼくの意識は遠くのほうへと向かい始めていた。
響きと怒りを前に、オネットは立ち尽くし、山田はなにやらきょろきょろとしていた、僕は遠い世界へ向かっていった。ただ、加藤だけが、響きと怒りの世界を突き進んでいった。乱闘騒ぎの人ごみの中に体をねじ込み、スーガピャオなどと言ってカウンターのお姉さんに身分証明書のパスポートを渡すことに成功した。加藤はほんとうにすごい男なのだ。
この加藤の偉大なパフォーマンスにより、我々は無事チケットを買うことができた。朝から、信じられないほど体力を消耗し、よれよれになりながらバスに乗り込んだ。バスは満席だった。あと少し遅かったらチケットがとれず上海まで来て、1日目にして計画がとん挫することろだったのである。
バスは柔らかな朝日が差し込んでいた。旅立ちのにおいがした。
つづくかもしれない