さよなら、東京
午前5時、上海空港の到着ロビーを出た。空港の無機質な空気を脱し、アジア的な濃度のむっとした空気にどわっと包まれた。ああ、異国に来たのだ。出口前で捕まえた、少し機嫌の悪そうな運転手のタクシーに男4人で乗り込んだ。
助手席に座った加藤がナンプーダーチャオ(南浦大橋)までと告げた。運転手は怪訝な顔つきで、理解したというようなそぶりをした。
「いやあ、上海着きましたね。いいですね。いつもなら本当は白タクを捕まえるために戦うんですけどね、今日は4人もいるので普通のちゃんとしたタクシー乗りましょう」
加藤は今回の旅行のコンダクターだった。彼は大学の後輩で、現在は広告代理店で働いている。大学生の頃は、目を隠すほどの長さの前髪が激しい鬱屈性を発していたのだが、社会人になってからはきちんと目が見える位置に切りそろえられており、一見健全な人間ふうになったのだが、その実は大変な男なのであった。
彼は、長距離移動症候群に疾患していた。アジアであれば、ちょっとコンビニにアイス買ってきますくらいのノリで出かけていき、観光名所ですらないようななんでもない場所をうろうろしているのである。とにかく移動することが大好きらしく、常にどこかへと出かけている。マンホールを見る、ただそれだけのために1か月もの間ソウルに滞在していたなどというよくわからないエピソードが彼を一番よく表しているように思う。
社会人になってからは月2回ほどの頻度で外国に行っているらしく、上海は15回くらいは行ってますね北京も20回くらいいってます。ていうか上海は先々週も行きました、なんていうことをこともなげに言うのだった。
運転手はカチカチとライターを叩きタバコに火をつけ、煙をひとのみするとアクセルを踏んだ。タクシー乗り場を抜け大きな道に出ると、窓の外は夜なのに真っ白になっていた。高い濃度の霧がそこかしこに立ち込めていて、上海の街は姿を消してしまったのであった。ユーミンの「雨の街を」の歌いだしの美しいラインがあたまに去来した、夜明けの上海も何やら怪しく美しくミルク色に染まっていたのだ。
「これはこれできれいだね。景色が全然見えないけど」
僕は初めての上海にわくわくしていた。
「そうですね。なかなかいいもんですね」
隣に座っていた後輩山田もふむといった調子で外を眺めはじめた。後輩山田は今回の旅行の最年少構成員でまだ学生であった。親しみやすい性格をしており、僕の友人たちの統合の象徴のような存在であった。また、彼はヘビースモーカーでもあり、タクシー運転手のタバコの煙をかいでは後部座席でソワソワとしていた。
運転手はタクシーの窓を開け、タバコを指ではじいて捨てた。タバコは火をともしたまま、真っ白な空間にすごい速度で吸収されていった。
「なんか、ちょっと速すぎない?気のせいかな、外国の速度になれていないからかな。うーん、いやこれはやっぱりとんでもなく速いのではないか……?」とひとり禅問答をしていると山田が首を傾け鷹揚な目つきでオレンジに光っているメーターを見た。
「130キロですね」
世界が夜霧で真っ白だったので、よくわからなかったのだが、なんとタクシーは尋常ではない速度で走っていたのである。もちろんそこは高速道路だった分けであるが、ほかの車は霧がかかっていることもあり速度を80キロくらいで抑えているのである。そんなきわめて安全志向な車をあざ笑うかのようにタクシーはウインカーも出さずに豪快な車線変更を繰り返し、15秒に1台のペースで車を抜き去っていくのだった。
僕たちは右にぐわんと曲がっては「おお…」と間抜けな声を上げ、左にぐわんと曲がっては「うわ…」と震え上がった。
タクシーの運転手は、そんな僕たちの動揺を知ってか知らずか、もちろんウインカーを出すこともなく、前の横並びの2台を抜き去るべく、左はじから右端まで2列一気に車線変更をかましてた。まじかよ、と思ったのもつかの間、そこから車はぐんぐんスピードを上げ、鋭い切れ味で左へと車線変更をしたのだ。これが上海の洗礼かと肝を冷やした。
「僕たちは、死ぬのかもしれないね」とぼやくと後輩山田が「そうですね、上海で死ぬのも悪くないですね」などと不吉なことを言った。薄くあいた窓から空気が荒々しく入りパタパタパタという乾いた音が響いた。
ホッホッホという低い笑い声が車内に響いた。声の主はオネットであった。彼も大学の後輩で、現在は教育系の仕事についていた。どしんとした体系にスポーツ刈りで、将来は文士たることを志していたため、同期である加藤から、「きみは文豪なんだから」とよく冷やかされていた。男子一貫、寡黙たるを美徳とせよといったオーラを放ち、口数は少なかった。ホッホッホッという特徴的な笑い声をもっており、普段あまりしゃべらないことから、やたらとその笑い声が際立ち印象的なのであった。
暴走タクシーは数多の車を抜き去り、目的地の南浦大橋を渡った。陽があがりはじめ、穏やかに明るくなってきていた。霧はうすくなり、街はやわらかく色づき始めていた。南浦大橋は非常に大きな橋で、上海の街が広く見渡せた。遠くには神経質に伸びる高層ビル群、近くには、いかにも中国的な強烈なフォントの看板が浮かんでいた。ぼんやり漢字が揺蕩う街は異国であることを思わせた。
僕たちはようやく、第一目的地であり、旅の始まりの地、南浦大橋のバス停にたどりついたのだった。バスを降り周りを見渡すと霧は陽にのまれ消えさっていた。
つづくかもしれない