今夜はいやほい

きゃりーぱみゅぱみゅの「原宿いやほい」のいやほいとは何か考察するブログ

一泊二日、仙台から福島浜通りをひたすら南へ。はらこ飯をしずかに食べる。

 

配偶者と山形に旅行に来たのだけど、配偶者は仙台で友人に会うということで、別行動になった。僕は、この間、盛岡に行っていたので、今回は、ひたすら南下して、海のものをめちゃくちゃたべるぞ〜と意気込んでいた。仙台でレンタカーを借りた。まずは今日の作戦をたてねばならぬと、喫茶店に突入した。

 

 

モーニングセットを注文する。朝はなんと言ってもコーヒーにトーストである。マーマーレードがついているので、個人的に、これはかなり当たりだ。

 

 

現地の情報を仕入れるため、テーブルに置いてあった河北新報を読んでみる。

 

「「東」は、未来」

 

 

僕はこれから、未来を走ることになるようだ。

 

昭和8年津波に御用心

 

ということで、レンタカーに乗り込んで、車を走らせ始めた。喫茶店で特に詳細な作戦は作成されなかったのだが、名取市に小さなマーケットのようなものがあって、いろいろ買えるようだったので、とりあえずそこに向かってみることにした。

 

なんともよいドライブ日和だ。

 

ところが、名取市のマーケットは朝早かったこともあって、店はあまり空いていないようだった。下調べをしておかないで行動するとこうなるのだ。まあ、一人なので、別に誰に迷惑をかけているわけでもないしよいのだが...

 

隣に、復興伝承館があったので入ってみた。

 

 

震災を語り継ぐ人々という映像が流れていた。のんきな気持ちで走り出したのだが、いきなり、なかなか重めなものに遭遇した。ぼくは、何回も見ているはずなのに、なぎ払うように流れる津波の映像に改めて衝撃を受けた。

 

www.youtube.com

 

せっかくなので、震災関連の施設に行ったりや石碑を見たりしてみようと思った。Googleマップはなんでも教えてくれるもので、震災関連のものが福島県浜通りにいろいろ作られていることがわかった。

 

すぐ近くに、震災メモリアル公園という場所があるようだったので、とりあえず、そこに行ってみることにした。

 

 

公園には、石碑がどんどんどんと立っていた。

 

 

流されたものがここに集められたのか、もともとここにあったものなのかはよくわからなかった。どんなことが書いてあるのかなと見てみると、一つは、昭和8年地震津波を受けての石碑のようだ。地震があったら津浪の用心と書いてある。

昭和三陸地震 - Wikipedia

 

 

沿岸部は今回の地震だけでなく、過去の地震津波の石碑も残っているようだ。

 

はらこ飯は冷たいほうがうまい説

 

車に乗り込む。石というメディアはなんと堅牢なことか!などと感心しながら南に向かう。20分ほど走ったところで腹が減ってきた。車を停め、昼ごはんを食べるところを探すことにした。季節的にはらこ飯食べたいなと思いGoogleマップで検索する。しかし、そんなに都合よく近くに食べられる場所あるのかなあと思っていたのだが、すぐ近くの魚屋がはらこ飯弁当を売っているのを発見した。完璧である。

 

 

安達魚店。車を降りると突風が吹いた。温度的にはそこまで寒い訳ではないのだが、風のせいで、体感温度がかなり低い。小走りで店に向かう。

 

 

はらこ飯弁当意外にもいろいろ弁当があり、どれも美味しそうだ。予定通りはらこ飯弁当を速やかに手に取り、会計をすませた。上がり調子である。

 

 

いくらは別で付いていた。蓋を開けるとつややかないくらたちがこちらをじっと見てくるではないか。はらこ飯にいくらを垂らしかける。胃が鳴りかねないくらいにうまそうである。僕は、つい二三年前まで、はらこ飯を食べたことがなかったのだが、東北育ちの配偶者がはらこ飯好きで、この料理を認知するに至った。

 

はらこ飯に一家言ある配偶者によると、はらこ飯は冷めていた方が絶対にうまいとのことなのだ。どれほどメジャーな思想なのかは不明だが、僕はこのはらこ飯冷たい学派に帰依し、はらこ飯といえば、冷たい状態でしか食べたことがなかった。

 

 

何故なのかを考えてみると、そういえば、いくらというのは、寿司でも冷たい状態で食べている。暖かい状態のいくらは若干生臭い感じがあるので、その辺が影響しているのかもしれないと思った。箸ですくって口に放り込むと、出汁が染み込んだ米に、はじけたいくらがとろっと絡まっていく。鮭自体も、言わずもがな米にあう。僕は車のなかで一人、「うま」とつぶやき、無心ではらこ飯を食べた。

 

コンビニによって、茶を買う。また一人で「はあうまかった」とつぶやく。はらこ飯を食べると、しずかに、しかし確かに、東北への愛が深まっていく。

 

摩尼車は時をかけるようにして回る

 

また、車で走り始めた。今日どこに泊まるのかも決めていない。とりあえず適当に南下を続けている訳だが、天気のいい日のドライブは楽しいものである。

 

運転していると、津波の痕跡がそこかしこにある。

 

 

津波で廃校になった小学校が震災遺構として保存されているようなので寄ってみることにした。残念なことに、この日は休館日で開放しておらず、小学校は見学出来なかった。

 

 

そばに記念碑があった。千年塔というらしい。摩尼車があったので5、6回転くらいさせてみた。祈りというのは不思議なものだなあと思う。この摩尼車は、今後、何万回とまわされるのだろう。石は強い。

 

 

南相馬の珈琲亭いこいで休憩

車をまた運転する。浜があったので少し散歩する。だれもいない静かな浜だ。

 

 

南相馬市に到着した。仙台から70キロほど南下してきたようだ。喫茶店に入り、今後の計画を立てることにした。

 

 

コーヒーとケーキを注文した。スマホを開く。普段あまり運転しないので、数時間運転するだけでもなかなか疲れるものだ。コーヒーをすすった。静かでよい喫茶店だ。高齢の品のよさそうなマスターがちゃきちゃきと働いていた。

 

 

いろいろ検索をしていると、さっき寄ったものとは別の震災遺構の小学校と、東日本大震災原子力災害伝承館という施設が比較的近いところにあるようだったので、そこをいったんの目的地とすることにした。

 

 

運転していると、陽がだんだんと暮れてきた。すこしひらけた所に出た。すすきが吹きこぼれるように生えていた。車を停めて、窓を開ける。風がふいて、すすきが揺れる。なんどもなんども風が吹く。すすきは夕日を吸い込んで、輪郭もあいまいに、大きな布が波打つようにして揺れていた。

 

 

車を走らせる。松林を作り直していた。

 

 

車をさらに走らせる。神社が再建されていた。神社がこうして再建される場合、神社の組合的なものが主導するのだろうか、それとも地域の人なのか、国なのだろうか。

 

 

津波の被害にあった請戸小学校を見学する

そんな感じでだらだらと運転しながら請戸小学校までやってきた。津波の被害にあった小学校が、津波の影響を伝えるための施設として公開されている。

 

 

一階の窓ガラスは抜かれていて風が吹きつけてくる。こんな感じで、説明書きがいろいろ置いてある。そうか、三月だし、卒業式が間近だったのだなあと改めて思う。

 

 

津波のパワーがいかに大きかったのかをまざまざと見せつけられる。

 

 

 

全員が校庭に避難したとある。後からみると冷や冷やしてしまう。

 

 

いろいろな残留物があったのだろうけど、今は各教室は空洞になっている。

 

 

10年以上たって、体育館の床が抜け始めていた。前方には、いまだに卒業証書授与式の文字列が掲げられている。

 

 

正門から校内に入る。地域の地図にのった「わたしたちのまち請戸」の文字を見て、しばらくの間、動けなくなってしまった。

 

 

小学校と学生たちが避難した山の距離がわかる。

 

 

学校を出た。しんと静かな気持ちになった。雲が帯状に大きく広がっていた。

 

 

強大なパワーにおののきながら車に戻った。茶を飲み、腕を組んでしばし虚脱モードになってしまった。少ししたら、修学旅行生がバスで大量にやってきた。そうか、自分にとっての阪神淡路大震災がそうであったように、今の中学生は、もうこの津波はきっとリアルなものというよりはメディアなどを通して伝わってくる歴史上のものなのだろうなと思った。彼ら彼女らは何を思うのだろうか。学校を離れた。

 

東日本大震災原子力災害伝承館

 

そのまま、近くにある東日本大震災原子力災害伝承館に向かった。

 

 

放射線量計がある。0.058くらいであるらしい。

 

 

資料館はそこそこ大きかったのだけど、自分以外誰もいなかった。最初に、震災についての動画を見る流れになっているので座って地震津波の映像を見る。

 

その後、原発がいかに導入されていったかの展示を見る。

 

 

”明るい未来のエネルギー”

 

 

先ほど、駐車場の放射線計が0.05くらいだったので、東京とあまり変わらないらしいことがわかる。

 

 

どこかで飾られていたらしい標語。

 

 

資料館を見たらあたりは真っ暗になっていた。

 

 

朝からずっと移動していて疲れてしまった。隣に、双葉町の交流センターがあったので、お菓子を買う。もものジュースを一気飲みする。

 

 

さて、今日泊まる場所を決めなくてはならない。そう、ここまできて何も決めていないのである。できれば5000円くらいで泊まれて、周りに居酒屋とかがあって、コンビニもあると尚よいな......と検索をすると、その条件を満たしそうなのは南相馬であることが分かった。双葉町まで来ていて、圧倒的非効率だが、南相馬まで戻ることにした。一人旅の気楽さといえば聞こえばいいが、とにかく無計画である……

 

途中、浪江町はこんな感じだった。

 

南相馬の寿司屋で塩釜港のひがしものマグロを食べる

 

もくもくと運転して南相馬まで戻ってきた。ホテルは5000円くらいだったのでどんなもんかなと思ったけど、けっこう綺麗でいい感じだった。荷物を置いて、夕飯を食べる場所を検討する。二箇所くらい居酒屋の候補を見つけ、意気揚々とホテルを出た。

 

一軒は、満席で入れず、不穏さを抱え次に向かうと、そちらは臨時休業だった。僕は、すでに酒を飲むスイッチを入れていたので、南相馬の路上で、おいおい、どういうことだよとひとり打ちひしがれた。冷たい空気の暗い道をとぼとぼと歩いた。街頭の灯りもぽつりぽつりとどことなく寂しい。

 

空虚に歩いていると、からからと音がして、戸が開いた。ゴルフクラブを持ったおっちゃんが現れた。

 

あまりにも突然だったので、三秒ほど、お互いに顔を見あった。おっちゃんはじっとゴルフクラブを持ったまま、こちらを見ていた。視線を上げると、看板があり、どうやらそこは寿司屋でゴルフクラブのおっちゃんは大将のようだった。

 

 

「今、入れたりしますか」

 

大将は「ちょっと待ってて」と言って、ゴルフクラブを持ったまま店の中に戻っていった。大将が顔を出して「いいよ」と言った。ちょうどお客さんが二人出ていくところのようだった。大将がなぜゴルフクラブを握って出てきたのかは全く不明だった。僕は、そんな偶然的出来事から、寿司を食べることになった。

 

やはり、福島にきたからには日本酒だろうなと、しょっぱなから花泉を注文する。写真を撮り忘れたが、お通しはおでんだった。ついでに蟹味噌あえを注文した。

 

花泉で口をうるおす。長いこと運転していたのでこれがまた美味いのだ。蟹味噌和えをつまむ。口に旨味がはりついて、酒で洗い流す。うまい!

 

 

白子の湯豆腐を注文した。

 

「白子は一緒に茹でると、硬くなっちゃうから自分で入れてあっためてください」と言われた。別添えの白子はなんとも艶かしい様で光っていた。白子をすくい、出汁に沈める。

 

少ししたところで、ポン酢を少しだけつけて食べてみる。白子がいい感じにあったまり、とろんとしておいしい。

 

 

十四代ください」

 

「はい、お客さんはどこからきたんですか」

 

「埼玉です」

 

「そうですか、十四代とか、東京の方だとあまりないですよね。わたしも昔東京に住んでいたことがあるので」

 

僕は、そんなに日本酒に詳しくないのだけど、十四代が人気で、手に入りにくいという噂だけは知っていたので、何も知らないのに、さも知っているかのようなそぶりで「そうですね、なかなか東京ではね...」などと小芝居をうち酒を待った。

 

しばらくすると、つやっと輝く十四代が目の前にやってきた。どれどれ、噂の酒は美味いのか、と口をつけてみると、これが大変美味しかった。甘みと酸味がよい感じで詰まっていて、飲み込んだ後によい余韻が残った。なんというか春を感じるような華やかな感じがした。僕は軽く目を見開いて「はあ、うまい」と初めて飲んだ感じ丸出しでつぶやいた。

 

「どこに泊まってるんですか」

 

「駅前のホテルです」

 

「ああ、結婚式場があるところですか」

 

「あ、それの隣のやつですかね。けっこう泊まってる人いるみたいでしたよ」

 

「そうなんですね、一時期は全然人もいなかったんですけどね。結婚式場も最近使われているの、見たことないんですよ。震災で若い人がみんな街を出ていってしまったんでね」

 

「そうなんですね......」

 

テレビでは東日本大震災関連の映像が流れていた。当たり前だけど、地元紙を含め、埼玉にいる時とは比にならないくらい震災の情報に接することになるんだなあと思った。

 

「じゃあ、あと寿司を何巻か握ってもらえますか」と言うと、大将はいい感じに寿司を握ってくれた。

 

 

塩釜港であがるマグロのうち、目利きが選んだ、特別いいものをひがしものマグロというらしい。身の食感が繊細でとてもおいしい。

 

三陸塩竈ひがしもの | 塩釜水産物仲卸市場塩釜水産物仲卸市場

 

 

「じゃあ、お会計で」と言うと、味噌汁を出してくれた。熱々の味噌汁をすすって帰った。

 

 

ふたたび喫茶店でモーニング

朝、十時を過ぎたくらいに目が覚めた。昨日行った喫茶店でモーニングを食べることにした。

 

近所の老人が同窓会の準備の会議か何かをしていて、こんなことあと何回できるかね、というような会話をしていた。僕は、コーヒーを飲んで、バナナをかじった。

 

 

地元の新聞を読む。ちょうどトリチウムの海洋放出をしていたようだ。

 

 

南相馬の由来をたずねる、相馬太田神社

 

せっかく南相馬まで戻ってきたので、南相馬の名前の元となった神社に行ってみることにした。相馬太田神社である。

 

 

どうも、南相馬という名前は茨城に由来があるらしい。

 

 

なかなか荘厳な神社だ。

 

 

そんな感じで寄り道などしつつ車を走らせた。今日は天気が良いようである。旅行において天気は9割である。

 

 

牛たちのための鎮魂碑

昨日、ホテルに帰って、南相馬のあたりを調べていたのだけど、近くに、牛魂碑というものがあったので、行ってみることにした。カーナビに位置情報を入れたのだけど、カーナビがおかしくなって、あっちこっちループさせるルートを表示して、あれ、ここ来るの3回目だぞ状態になったので、Googleマップの案内に切り替えた。するとものの10分ほどで到着した。Googleさまさまである。

 

車を停めて、窓を開け、目を凝らすと石碑のようなものがあるのが見えた。

 

車を道のわきに停めて歩いていく。おお、確かに牛魂碑と書いてある。

 

 

何が書いてあるのかなと、眺めてみる。うーむ、酪農へのプライドと、静かな怒りを感じる。今回の石川では、酪農が行われている地域はあるのだろうか

 

 

調べてみると、こんなニュースが出てきた。なんとも言えない気持ちになる。

断水・生乳の破棄…「乳牛は諦める」能登半島地震、牧場主の重い決断

 

南相馬で磨崖仏を見る

南相馬で観光をすると言うと、磨崖仏が有名らしいということは知っていたので、見に行ってみることにした。大悲山の石仏と呼ばれているらしい。

 

僕は、福島にやってくる前、山形の新庄にいたのだけど、そこで熊が出たというニュースを見て、ほうほうと検索してみると、なんと、同時刻に、熊が出たところから百メートルくらいの位置を歩いたことを知ったのである。なので、木々の生茂る道を登っていくのはなかなかの恐怖があった。

 

 

この建物の中に磨崖仏がいるらしい。

 

 

なかなかの迫力だ。磨崖仏というのは、なんというか、人間の執念のようなものを感じさせる。これを作るのにどれだけの時間がかかったのだろう。

 

 

近くにある観音堂石仏も見る。こちらはほとんど消えてしまっているのだけど、消えていることによってむしろ、なんとも言えない迫力があった。

 

 

南相馬というのは観光するにしてもなかなか面白いなと思った。

 

浪江町の名物、波江焼きそばを食べる

 

車に乗って、浪江町へ向かってみる。浪江町は道の駅がなかなかよいと聞いたことがあったので、行ってみることにした。

 

 

綺麗な建物に、地元の食品や農産物などがいろいろ売られている。食堂もかなり人気のようで、並んでいる人がいるくらいだった。僕は最後尾に並び、浪江町は港でシラスがよく獲れるらしく、シラス丼が人気のようだった。昨日行った寿司屋で、浪江焼きそばはわりとおいしいですよと聞いていたので、浪江焼きそばを注文してみることにした。

 

太麺にこま肉が入っている。素朴な感じだけど、わりとおいしい。

 

 

今日の目的は廃炉資料館だったので、富岡町が目的地だった。資料館の前に、とみおかアーカイブミュージアムという施設があったので行ってみることにした。

 

 

なんと、富岡町の歴史が25,000年前から語られる。

 

 

亡くられた、震災当時、避難誘導をしていた警察官の方が乗っていたというパトカーの展示があった。なんというか、本当に、ただ立ち尽くしてしまうしかなかった。

 

 

当初目的の、廃炉資料館は、なんと予約がないと基本入れず、断られる僕を尻目に松下政経塾の皆さんが、ぞろぞろと中に入っていっていた。

 

 

柳美里さんの書店フルハウス

 

そろそろ、家に変えるため、いったん仙台まで車を返しに行かねばならないので、あとはひたすら仙台まで北上を続ける。南相馬まで帰ってきて、あ、そう言えば、柳美里さんがやっている本屋が南相馬にあると聞いたことがあるなと思い出し、検索してみると、数キロ行ったところにあるようだったので行ってみることにした。

 

JR小高駅から歩いて数分のところにあった。

 

いろいろな作家の方が選書した本が店に並んでいるようだ。かなり有名な人が選書していて、本が好きな人はこれを目当てに旅行にくるのでも十分楽しいのではないかという充実ぶりであった。

 

フルハウスは、飲食もやっており、近所の女性たちが、パスタを食べながら井戸端会議のようなことをしていた。僕は、柚茶と韓国のチャルトックなる伝統的なお菓子を食べた。

 

このチャルトックというお菓子は餅のようなぷにぷに食感で、表面のナッツの香ばしい感じと相性がよくとても美味しかった。

 

せっかくなので、ここでしか買えないものを買おうと思い、地元の男性が仮設住宅での暮らしなどについて詠んだ歌集と、柳美里さんのサイン本を買った。

 

ふるさとを追はれるやうに来て暮春 - 原 唯早夫

 

 

震災遺構 中浜小学校

最後に、行きの時に休館だった中浜小学校に寄ることにした。時間的に閉館が迫っていたので、急がねばと車を走らせた。駐車場に車を止める。ぎりぎりの時間帯だったからか、あまり客はいないようだった。

 

 

いきなり、小学校名がきざまれた石碑がぽきっと折れていた。

 

 

天井に限りなく近い位置まで津波がきていたことが分かる。

 

 

一階を歩いていく。

 

 

 

 

 

 

他に客はいなかった。スタッフの人が寄ってきて、案内しますねと言って、簡単に当時の状況を説明してくれた。僕は頷きながらスタッフの人についていって、屋上までやってきた。

 

小学生たちは、津波を避けるため、屋上に逃げてきたのだという。当時、学校の先生が津波の見張りて海を見ていた。すると、もう、どうしようもない大きな津波がやってきた。屋上にいても飲み込まれると思ったらしい。第三波は、かなり近くまでやってきたのだが、第二波の引き波が第三波と衝突したことで、勢いが落ち、学校全体が飲み込まれるという惨事が奇跡的に回避されたのだ、とスタッフの人は教えてくれた。

 

ここは、本当は家が立っていたのですといって学校から海までの間の土地を指さした。そこは何も無かったかのように平だった。

 

 

去年まではひまわりが植えてあったのだが、今年からようやく農地として使い出し、ネギか何かを栽培していると言っていた。塩害がひどく、荒れている土地に強いひまわりくらいしか咲く植物がなかったらしい。

 

 

静かな海が見えた。

 

 

こちらにも、今回の地震で流された、昭和8年津波の被害を後世に伝える石碑が設置されていた。

 

 

 

レンタカーを返す時間が近づいていたのだけど、空がくれなずんでなかなか陽が落ちず、思わず車を降りて写真を撮った。

 

 

旅のしめに、亘理の田園ではらこ飯

最後に、昨日の寿司屋で、はらこ飯なら亘理にある田園という店が有名だと教えてもらったので、寄ってみることにした。

 

 

やはりはらこ飯だ。そして、これは人生で初めての温かいはらこ飯であった。二日間連続ではらこ飯を食べてしまうなんて過ぎた贅沢かもしれないなあと思った。なるほどたしかに有名店、鮭も柔らかく、大変おいしい。しかし、僕は、配偶者の思想教育によって、なんとなく冷たいはらこ飯の方こそ真の姿なのではないかという気持ちがどうも心から離れないのであった。