- 埼玉をどこへいく
- 妻沼地域の細長いいなりずしを食べる
- 埼玉の中の日光へ
- 埼玉の郷土銘菓、しょっぱい大福の塩あんびん
- 関東北部に点在する激うまタイ料理を食べる。
- 埼玉にある、旧陸軍の兵器の工場跡と、その給水塔跡を見る。
埼玉をどこへいく
日曜日、埼玉北部に向かうことにした。埼玉に住んでいる人以外には全くなんのことか分からないだろうが東西南北で微妙に雰囲気が違うのである。南部は体は埼玉だが心は東京みたいな感じで、西部はなんというか武蔵野!という感じで東武はベッドタウン、北部は北関東というようなイメージなのだ。
タイムズカーシェアで車を予約して、家を出る。いい天気である。車に乗り込んだら、信じられないほどの熱がこもっていた。急いでクーラーをつけるが、なかなか涼しくならない。酷暑である。
目的地は熊谷の妻沼という地域だ。ここには歓喜院という寺があり、そこにある聖天山という建築物が、日光東照宮のような意匠でなかなかいい感じらしいと聞き、行ってみようと思ったのだ。
快調に、車を運転していたら、異変が訪れた。妙に暑いのである。クーラーの送風口に手を当ててみるも、常温(という名の熱風)の風しか出てこない。どう設定をいじっても、冷風が出てこない。気温は35度を超えているような日だったので、これは普通にピンチである。
僕は窓を全開にして、風を取り入れ、コンビニで買った冷たいお茶でのどを潤しつつ、あついあついと呻きつつ、妻沼に向かった。僕の体温はかなり上昇しているらしく、くらくらしていたのだけど、何とか、意識が朦朧とする前に妻沼に到着した。
車を降りた、日陰であれば外のほうが涼しいくらいだった。
聖天山のほうへ向かっていく。全く人気がなく快適である。
妻沼地域の細長いいなりずしを食べる
妻沼は、いなりずしが有名らしく、食べてみたいなと思っていた。
江戸時代、利根川の水運により、江戸で流行した「稲荷寿司(いなりずし)」が妻沼へ伝わり、河岸で働く人々や、妻沼聖天山の参拝者などに喜びと満腹感を与えた。
文化庁100年フードに「妻沼のいなり寿司」が認定されました:熊谷市ホームページ
川越も、舟運で江戸文化が運ばれ、根付いたと言われているが、埼玉北部でも、同様に川でつながって、江戸の文化が残っているようだ。
歓喜院の真横にあった聖天寿しという店に寄ってみた。
Googleマップでは、営業時間を過ぎていた。やっているのだろうかと「すみませーん」とのぞいてみると、奥のほうからスタッフの人が出てきて「まだありますよ」と教えてくれた。
完全にテイクアウト専門店のようで、店では食べられないようだった。購入して店を出ると、次の客が入って来て、その人は、すみません売り切れなんですと言われていた。どうやら僕は運が良かったようだ。
細長くて、あまり見たことがない形だ。遅い朝ごはんくらいのつもりだったのだけど、結構お腹いっぱいになりそうだ。箸でつまむと、くたっと途中で稲荷ずしがまがった。かじるとじゅわっとタレが滲み出てきた。味は巷にある稲荷ずしと大きく違いがあるわけではないのだけど、少し濃い目の味付けで、なかなか美味しかった。
木漏れ日が足元で揺れている。影に入ると比較的涼しい。夏はやはり、これくらいがつっとしたものがよいものだなあと思いながら、だれもいない参道のベンチで妻沼いなりずしを食べた。
それなりに立派な寺で、こんな美味しい観光資産もあるけれど、全く人がいないので、埼玉観光というのは快適である。
埼玉の中の日光へ
いなりずしを食べ終えて、東照宮に似ているらしい、聖天山を見に行くことにした。
ここで、どんと聖天山が出てくる。ここまで貼ってきた写真はカメラで撮影をしている。聖天山は、距離が近くて全体が入らなかったので、スマホで写真を撮ったのだけど、恐ろしいほどにビビッドである。写真というより、もはやCGのようだ。こうして並べてみると、かなり印象が異なるものだ。
細かい意匠を見てみると、たしかに、かなり日光東照宮に似ているような気がする。調べてみると、どうも日光東照宮の修復に携わった石原吟八郎という彫刻師が中心となって制作されたらしい。日光東照宮に比べれば小さいけれど、これはなかなか立派である。
埼玉の郷土銘菓、しょっぱい大福の塩あんびん
駐車場まで戻ってきた。僕は、赤いのぼりが揺れているのを目ざとく見つけた。塩あんびんである。この間、久喜のあたりを歩いていたら、塩あんびん売っています!と書いてあって、なんだそれはと調べていたのだけど、どうやらこれは、埼玉の北のほうに存在している郷土銘菓らしいのだ。
塩あんびんというのは、砂糖のかわりに塩で味付けされた大福のようなものらしい。
埼玉銘菓というと十万石饅頭なわけだが、こうして隠れた銘菓が存在していたらしい。けっこう長いこと埼玉に住んでいたが、知らないものが、まだいろいろあるものだ。
クーラーが壊れた限界車に帰っていた。塩あんびんを食べてみる。なるほど、中の餡子が甘くなく、塩味である。脳がこれは甘いものであると認識しているので、認知がおかしくなったような感覚がある。ツイッターにこの塩あんびんのことを書いたら、フォロワーの人が、熱中症対策にいいのだと教えてくれた。熊谷は激暑地帯だし、塩気のあるものが必要というのは確かになと思った。
妻沼のいなりずしものそうだが、このあたりには、歴史的なスタイルの食べ物が形を変えることなくいろいろ残っているのかもしれない。
関東北部に点在する激うまタイ料理を食べる。
灼熱車をぶんと走らせた。とてつもなく暑い。前から行ってみたいなと思っていたタイ料理屋アロイチャンに向かうことにした。北関東近辺はうまいタイ料理屋が点在しているのだ。
スマホでお店の外観の写真を撮る。やはり、無用にビビッドだ。新海誠化である。
タイ人の女性が一人で切り盛りをしているようだ。パッペクブンぶた目玉焼きごはんかけというものを注文してみた。
地元で愛されているお店のようで、家族客でにぎわっていた。僕は隅のほうでぶた目玉焼きごはんかけ的なものを待った。一人で厨房を回しているようなので、30分ほど待った。特に何か予定があるわけでもないので、問題はなかった。
この、タイ的炒め物は、ナンプラーとニンニクの香りがよい塩梅でまとまっていて、米に合い、大変美味しかった。キュウリも夏には清涼感があってよい。うまいなあとつぶやきながら食べた。
辛そうな調味料があったのでかけてみる。ナンプラーに辛みが加わると、大変な立体感が生まれる。タイ料理は最高である。美味いタイ料理が食べたければ、北関東に来るべきである。
埼玉にある、旧陸軍の兵器の工場跡と、その給水塔跡を見る。
タイ料理を食べながら、僕は、昔、知り合いから聞いた、埼玉の北部にある旧陸軍が作ったという給水塔に行ってみようと思っていた。車を走らせる。なんといっても車内はめちゃくちゃ暑い。クーラーは熱風を送ってくるのだ。夏の雲がうずたかくあちこちに散らばっている。窓を全開にして、牧歌的な田園の中を走っていく。こんなところに戦跡などあるのだろうか。
埼玉のなんて事のない景色の中に小さなビルのようなものが建っていた。くすんだ外壁が、歴史を感じさせる。どうもこれが、旧東京第二陸軍造兵廠深谷製造所給水塔のようだ。1955年に個人所有となり、2002年に登録有形文化財となったらしい。
この日はやっていないようだったのだけど、同じ敷地内でカフェが営業しているようだ。ごつごつとした建物で、周りは民家と比べるとやはりすこし異様な感じがあった。
でも、知らなければ普通に古い建物だと思って通り過ぎてしまうだろうなと思った。草木が生い茂っていて、陽の光に反して、暗い印象だった。僕は、しげしげと建物を眺めた。
この建物について検索していたら、近くにまた別の戦跡があるようだった。調べてみると、どうもこの給水塔の水を使っていたいた工場であるように思われる。東京第二陸軍造兵廠深谷製造所というらしく、ここで武器や弾薬の開発をしていたということのようだ。
車を10分ほど走らせた。それは、田んぼの真ん中にどんと立っていた。空が青いのでやたらと浮き立っているように見える。コンクリートは荒れており、時空の変化にさらされ続け、朽ちた木を見ているようなわびしさがあった。このわびしさは、日本が享受した平和の長さでもあるのだと思うと、田んぼの端で、しばし、乗っ取られたようにこの戦跡にくぎ付けになってしまった。
夏になると、終戦記念や原爆投下に関連し、戦争について、テレビが一斉に放映を始める。メディアを通してみるのもこれは学びがあることではあるが、探せば、日本中にこういうものが残っているのだろうなと思った。
ちょっと車から降りて、戦跡の周りを歩き少しして戻ったら、車は再び悲劇的に暑くなっていた。しかし、帰らなければならないので車に乗り、エンジンをかけた。汗が流れた。田んぼとちょっとした雑木林が続く道を帰っていく。少し行くと、なんでもない家並みが続いていた。よく見た景色だ。それはもう、どこまでも、ただずっと家並みが続いているのだった。