通天閣の真下、僕は、青背景黄色字のこてこて手書きフォントに目を奪われていた。
「秋には涅槃の旅が似合う…命ドブ捨て激闘紀行傑作戦」
意味不明と意味深の境界にある文句である。大阪でスパイスカレーが流行っており、カレー戦国時代の様相を呈していると東京で聞きつけて、ただカレーを食べるためだけに大阪にやって来た僕にとって、この謎文句は真に迫る何かであることのように思えた。涅槃といえばインド、インドといえばカレー、つまり、涅槃といえばカレーなのではないか、カレーを食べる為だけに大阪に来たのは、まさに、涅槃の旅であるのではないか、と。
「色男 ホ・セク」「あんなん、こんなん」「官能の奴隷」などのおどろおどろしい手書きフォントを眺めつつ、涅槃の多様性に思いを致すのであった。まだ朝の秋風の吹く新世界の路上では、女装家がギリシア彫刻さながらの気高き様で、黒いスパッツを剥き出しで衣装変えにいそしんでいた。そこからわずか200歩地点では、アル中になったと思われる老人が前後不覚の只中におり、季節的に冷たくなっているであろうはずのアスファルトの上をゴロゴロと転げていた。呆れ姿の救急隊員が混沌のなかにいる老人をかつぎあげ、救急車は新世界を出て行った。
大阪はなりふりかまわず急速に涅槃に向かっているようであった。商店街にはデビッド・ボウイのLet's danceがスカスカの音質で響いていた。
Let's dance
Put on your red shoes and dance the blues
Let's dance
To the song they're playin' on the radio
デビッド・ボウイとともに、少しでも涅槃へ近くべく、大阪のスパイスカレーを食べまくらなければならない、そう思ったのだ。
1軒目 nidomi 谷町四丁目
nidomiという店に向かった。ここのカレーはなんでも、シマチョウマレーというのをやっているらしく、シマチョウ(牛のホルモン)好きとしては外せないなと思っていた選んだ。開店ぴったりの時間に行ったにもかかわらず、店の前にはすでに五人ほどの老若男女が並んでいた。
カレー屋の良いところは、回転が異様にはやいので10分もすると並んでいても、けっこうすぐ店に入れるところである。シマチョウカレーとマトンのキーマカレーの相盛り。シマチョウが怪しくぬめぬめと光っている。なんとも豪勢である。スパイスカレーというのは、とにかく華やかだ。
カレーを口に入れると、唾液がただならぬ勢いで分泌される。飲み下すと、スパイスの香りが鼻に抜け、じわじわと喉があったかくなっていく。シマチョウはなんともぷりぷりで噛めば噛むほどじわりと甘味が出てくる。モツ煮しかり、ホルモンは味付けの濃いものに混じっていると真価を発揮すものだ。
付け合わせに小さくカットされたフルーツが盛り付けられている。箸休め的な感じで、口内をリフレッシュできてよい。カウンターでは黙々とカレーが食べられ、一様に静かであった。
僕がそもそもなんで大阪に来たかというと、東京でカレーを食べていたら、隣に座っていた恰幅のよい女性が、カレー屋の店主と仲良さげに喋っていて、盗み聞きをしていたらば、その客曰く、なんでも大阪のカレーの活況はただならぬものがあり、私などに至ってはカレーを食べる為だけに大阪へ行き、1日に5皿を食べてきたのだなどと自慢げに言うのである。女性客は、また太っちゃって、はっはと笑い、スプーンをプレートにかつかつと当てながら、カレーを一気にたいらげて店を出て行った。
やたらと脳にこびりついたその光景をTwitterで呟いたところ、フォロワーさんから、大阪で流行っているカレーというのはスパイスカレーという大阪で独自の進化を遂げたカレーなのだということを教えてもらった。カレーというのは、大まかに、欧風のカレー、インドカレー、日本の食卓に並ぶようなカレーなどに分類されるように思うが、そのどれとも違うカレーなのだという。
スパイスカレーというのはざっくりいうと
・スパイスが効いている
・南インドのカレー文化から影響を受けている
・盛り付けが華やか
・和風のダシが用いられることが多い
・小麦粉や油は少なめ
という特徴を持っているようだ。
刺激的なウマさとド派手なビジュアル 若者たちが虜になったスパイスカレー30年史 | アーバン ライフ メトロ - URBAN LIFE METRO - ULM
スパイスカレー、なぜ大阪で進化? 「わからん味」面白がり追求(もっと関西) :日本経済新聞
古典的な大阪のカレーというと甘口で、それに飽きた若者が大阪の地に、独自のカレー文化を作り上げていったというようなことらしい。最近はSNSの登場もあり変則的な営業形態をとることも難しくなくなり、居酒屋などの間借り営業がしやすくなったのも一因のようだ。30年の長きにわたり培われて来たとなるともう立派にひとつの文化である…… というわけで、僕は、はるばるスパイスカレーを食べに大阪へやって来たのだ。
打ち捨てられるように壁に書きつけられた謎の詩
スパイスカレーを食べるためだけに来たので、カレーを食べる時間帯を除くとすることがなかった。今更、大阪城見たって仕方ないしなあなどと思いつつ、暇をつぶしに喫茶店にやたらと入った。ここで僕は衝撃の出会いをしてしまった。そう、ミックスジュースである。スパイスカレーの食べ歩きの合間に、ミックスジュースをガブガブ飲んだ。
喫茶 ドレミ
大阪ではミックスジュースがうまいと聞いたことがあったが、なんとなく入ったドレミで慎み深く小さな椅子に腰掛けて、ひとつそれを頼んでみたらめちゃくちゃおいしかったのだ。東京民にとってのミックスジュースというと紙パックに入ったなんかちょっと酸っぱいあれだと思う。大阪のミックスジュースはみかんとバナナの生の味が効いてて果物感が強く、ミキサーで混ぜられ空気が含まれていて口当たりふわふわなのだ。
一口ではまってしまったので、秋風涅槃カレー旅は、秋風涅槃カレーミックスジュースの旅となったのである。しかし、あまりにも冗長である、とはいえ、しかし、そうなってしまったので仕方ない。
2軒目 百薫香辛食堂 本町
大阪は、またたく間に夜。
百薫香辛食堂はカフェっぽい内装だった。閉店近い時間に行ったからか客はおらずひっそりしていた。
飲み物はと聞かれたので、メニューに載っていたラムベースのアイスチャイを飲む事にした。ほど良い甘さで、さっぱりと飲みやすかった。
バターチキンマサラとマスタードポークを注文した。カレーはピカピカの皿にのってやって来た。まず、生姜の香りがして、その後、マスタードのピリッとした辛みがやってくる。マスタードがめちゃくちゃカレーにあうことに驚く。たしかに、脳内でシミュレーションしてみても、カレーとマスタードは合いそうだけれど、これがありそうでなかったなと思う。無心で食べる。
キャベツの酢漬けがカレーによくあい、ほのかにかかるパクチーも爽やかさを感じてよい。前のカレーより、ルーに穀物が溶け込んでいてもったりした感じがある。かなり好みの味だった。そろそろ、皆さんの脳にもカレーがこびりついて離れなくなって来たのではないないだろうか。そう、思い立ったが吉日、大阪へスパイスカレーを食べに……
純喫茶アメリカン
カレーで昂った胃袋を治めるため、ふたたび喫茶店へとやって来た。心斎橋のあたりで、夜でも人通りがあり賑やかだった。
大阪の喫茶店は東京より金がかかっている気がする。奥の方に案内され、席についた。本を読んだり、雑談をしたり、スマホをいじったり、夜職の人が時間を潰していたり、そんな光景が広がっていた。
やはりミックスジュースを頼んだ。泡がビールのように層を作っている。ふわふわである。ドレミよりもさっぱりとした印象で、飲みやすかったような気がする。そう、この時少し疲れていて、記憶が曖昧なのである。夜遅く飲むミックスジュースは微かに背徳感があった。隣の席では、大阪都構想の話がなにやら盛り上がっているようだった。
二日目、朝起きると、すでに10時を過ぎていた。だらだらと準備をして、ホテルを出た。レンタサイクルでシャカシャカペダルを漕いで店に向かった。
旧ヤム邸は、カレー界隈ではかなり有名で、最近は東京にも出店しているらしい。やはり、オープン10分前に店についたのだけど、すでに五人ほどが列を成し、カレーを前にそわそわと気もそぞろにスマホをいじっていた。大阪でのスパイスカレー人気はかなりのようだ。
前に若い女性が二人並んでいた。右の女性の彼氏は芸人であるようだった。M-1が何とかかんとかでうんぬんかんぬんなのだというはなしをしていた。大阪では、こんなにカジュアルに、芸人と付き合っている人が現れるものなのだろうか…… さすが大阪だ、などと無闇に感心してしまった。
鳥軟骨のカレーとなにかのカレーの相がけを注文した。
柔らかめの味付けのルーの中に鶏の軟骨が沈んでいて、ルーの上にはサラダチキンがパラパラとのっている。味付けは少し薄めで、軟骨のコリコリ感がとてもよかった。店員の話を耳の端で聞いていたら、マトンなどのカレーは臭みを消すために、味を濃くなりがちであるらしい。たしかに、最初の店のマトンカレーはかなり味が強かった。僕はこの軟骨のカレーはかなり好きだった。そうか、カレーは味付けが薄めのものを食べたければ、チキン系を攻めるべきなのだなと思った。
軟骨が美味しかったので、こりこりこりこりととにかく食感がいいのだ。左側のカレーがなんなのか失念してしまった。ビーフカレーだったような気がする。食べ終わるとやはり、スパイスの効果なのか胃から体があったまっていくような気がした。この感覚がまたいいのだよなと思った。
何軒かカレー屋を周り、大阪のあまりのカレー天国っぷりににわかに嫉妬をした。スパイスの高揚感が、嫉妬感情を煽っているような気さえした。大阪は自転車をちょっとこげばどこかに確実にカレー屋があるのである……東京にも最近スパイスカレーが徐々に入って来ているようだ。どんどん広がって行って欲しい。
付け合わせのタコとひじきの和え物も甘めの味付けで美味しかった。
平岡喫茶店
平岡喫茶店はドーナッツが有名らしい。甘いもの好きとしては行かなくてはならない。
ミックスジュースとドーナッツを注文した。普通コーヒーか紅茶とドーナッツでは!?と僕も思ったのだけど、しかし、せっかくならミックスジュースを飲むかと、この謎の組み合わせにした。
ドーナッツは、甘さがかなり控えめて、ほとんど素揚げに近いような状態だった。そのため、むしろ、甘いミックスジュースと大変相性がよかった。むしろ完璧な組み合わせと言えるような気がした。ミックスジュースは、マンゴーのような味が強く感じた。今まで飲んだミックスジュースの中では一番、果実味が強かった。うまい、うまい!
食べて飲んでばかりしているがカロリーは大丈夫なのだろうか。スパイスカレーは小麦粉を使っていないから、実質水とスパイスみたいなものだからきっと大丈夫なんだろうなと自己完結してミックスジュースを飲み干した。
三日目 朝
最終日、朝食を食べにホテルを出た。
モーニングセットをミックスジュースに変えた。ここまで来たら、もう最後までミックスジュースである。
卵サンドは、塩加減が絶妙で、食感もよく、完璧な朝ごはんと言ってよかった。だいぶ老化がすすんだ舘ひろしみたいな常連さんが入って来て、関西弁で軽い冗談などはさみつつ、あうんの呼吸で注文をして、新聞をたたみ読みしながらタバコを燻らせ、さっと出ていくのが見てとれた。入店から退店まで、動作が洗練されている……と僕は慄いた。
ミックスジュースは正直あまり好みではなかった。かなりクリーミーで、なにかが少し違う感じがした。もうすこし、味がくっきりしたミックスジュースがすきなのだ。
ただ、喫茶店としては大変すばらしかった。
4軒目 北浜丁子 北浜
北浜というのはスパイスカレーの聖地であるらしく、カレー屋がたくさんあった。3日目のこのカレーがマイ・ベスト・オオサカ・スパイスカレーとなった。
オープン時間にいくと、他の客はおらず、一番乗りだった。本日のカレーの鷄と根菜のクリーム 桜海老と小柱のサワーチーズを注文した。
店員さんが「白米と、バターペッパーライスどちらがいいですか」と聞いてきた。なんと素晴らしい響きだろうか、バターペッパーライス…… 寸分の迷いもなくバターペッパーライスを注文した。
僕はこのカレーに完全にやられてしまった。
グリーンカレーのようなスパイス感のあるホワイトソースのルーに和食っぽい味付けの鶏と根菜がのっていて、どこの国の食べ物とも似つかない味がした。全く新しいけれど、完璧にこうでしかあり得なかったかのようなキマっている味わいがした。タイカレーのようなシチューのような煮物のような。そしてなんといっても旨味を増した香りの良いバターペッパーライスとよくあうのである。すごい……うまい…すごい……と黙々と食べる。
桜海老と小柱のほうも食べてみる。奥の方に桜海老の旨味を感じるサワーチーズの味わいがたまらない。雰囲気としては、カルボナーラソースにちょっとちかいように思った。ジェニーペッパーが入っているらしく。ホワイトソースのこってりした口当たり中にも、弾けるような爽やかさがある。そしてやはり、バターペッパーライスと大変よくあうのである。すごい、大阪のスパイスカレー文化はすごいことになっている……欲望の赴くまま一瞬のうちに皿を空にした。
三日間が過ぎた。空になった皿を眺め、皿が空になってしまったことを確かめる。人がたびたび入って来ては、皿が空になっていく。
帰路につくべく、店を出て大阪駅へと向かった。昼から飲んでいるのか、スナックからかすれ声の抑揚のないカラオケが漏れ聞こえて来た。相対性理論のシンデレラだった。シン シン シンデレラ、わたしの後ろに乗って、タンデムでお城まで。今回は一人だったのであまり酒ものまなかったなあ。また来よう。さようなら、大阪!