ぱつぱつに張ったふぐの白子の薄膜が口の中ではじけると、体が打ち震えた。なんなんだこれと……
口の中にべっとりと旨味が残り、その香り高さは消え去ることがなかった。こんな美味いものがあったのか……
*
ふぐといえば下関という噂があるが、数多蠢く噂をかき分けていくと、実は、大分の臼杵という街のふぐが大変素晴らしいのだという情報をつかんだ。臼杵ふぐはなにより美味しく、そして、下関よりも圧倒的に安いらしいのである。
今までふぐの専門店に行ったことがなかった。わが父は肉、魚が嫌いな偏食家だったので、ふぐなんてもってのほかである。僕は、ふぐというのは一体どんな食材で、いかなる料理になるものなのか長らく想像をめぐらしてきた。
我々は、旅行滞在中の別府駅を発ち、上臼杵駅にたどり着いた。上臼杵駅は、松、無人、木造駅舎という、昭和と言ってもかなり初期の昭和を思わせる構えであった。よく分からないけれど、うまいふぐがありそうか、なさそうかというと、どうもこれはありそうな雰囲気である。
海へと向かう臼杵川の脇を歩いていく。川を沿うようにして、どこからか来た車がどこかに去っていく。山の向こうは帯のように広く赤く染まっている。涼しくなってきた夕方の散歩はとてもよい。
割烹 みつごという店を予約していた。一緒に来ていた大学の時の先輩は「ふぐ?ここまで来て、下関じゃなくて、わざわざ大分でふぐ食べるの?変わったやつだな……」といった表情をしていた。
割烹と書いてある通り、すこし厳かな作りだったのだけど、気を張るほどでもないのがよかった。事前に、5000円のコースを予約していた。席に着くやいなや、すみやかにビールを注文した。早くも、この時点で、僕の感情は沸点へと急速に近づいていた。店でビールを飲む……まさか酒が禁止される世がやって来るとは!ついに解禁である!栓の抜かれた瓶を傾ける。小さなコップの底にビールが落ち、ビールがゆっくりと膨らんでいく。しゅわわわわわという音を聞きながら、眉間に力を入れ、ぐぐっとビールを飲んだ。
感慨の最中「来ましたね、うまいですね。ビール!!」と僕がうめくように言うと、あまりコロナが出ない地域に住んでいる先輩は「ああ、そういえばそうね、関東の人たちはずっと緊急事態宣言で大変だったよね。」といったことを哀れみの表情で述べ、ビールを飲んだ。
ふぐはすぐにやって来た。まずは刺し身だ。皿の上でぬめぬめと光っている。じっと見ていると、動き出しても不思議でない気がしてくる。まっさらのふぐ素人なので何も分からないのだが、脳内で想像していたふぐの刺身よりも若干厚めに切ってある気がする。ビールの感動もそのままに、刺身を箸ですくった。歯ごたえがここちよくなかなか美味しい。なるほどなるほどと、ふぐの基礎を理解したところで、ふぐの焼売を食べた。
いい感じの柔らかさにほのかな甘み、周りをこりこりのふぐの皮が包んでいる。うまい。
かりっとした表情の唐揚げにすだちをしぼる。すだちの青々とした香りが立ち上がる。噛むと、旨味のある締まった白身の美味しさが伝わってくる。衣はサクサクで、噛むと油が回って、ちょっとした塩味がビールと大変によく合うのである。このあたりで僕は、最近、本格的に外で食べ飲みしていなかったことに加え、ふぐが単純にうまいので、もう何もかもどうにでもなれというような気持ちになっていた。
「これ、うまいですね!ふぐ食べるの初めてなんですよ」とつげると、先輩は「いやこの店は、特別うまいよ。おれは下関で3万のふぐを食べたことがあるけど、ほとんど互角かそれ以上かもしれない!」と言った。先輩の箸の速度は通常時の1.3倍ほどになっていた。
先述のとおり、父は肉も魚も何だったら酒も嫌いだ。ベジタリアンを先取りして実践していたなどというわけではなく、単に、味が好きでないらしい。
振り返ればふぐ以外にも、あまり食べていないものが色々とある。例えば、ひとり暮らしを始めるまで、僕は豚バラというものがよく分かっていなかった。父は脂身の薄いロースは少し食べられるのだが、豚バラのような油を楽しむタイプ食材はほとんど邪教のような扱いで接していた。ロースですら、箸を駆使し、横にちょこっとついている脂身をさながらオペのように器用に取り除き食べるのである。
遺伝子も生活習慣も引き継ぎそうなものだが、僕は肉も魚も好きなので、なんとも不思議なことだと思う。ふぐ寿司をつまむ。
ひと通り食べると鍋がきた。さっぱりとした味付けだ。やはり、ふぐは加熱されているほうが好きなようだ。
店の人がやって来た。「じゃあ、これ、雑炊にしますね」
「ありがとうございます。臼杵のふぐ、ほんとに美味しいですね」
初めて食べるふぐに興奮気味の僕に店員さんはふふっと笑いながら「ほんとですか、よかったです」と言った。
「ふぐというとまずは下関っていうイメージで、下関の方には時々食べに行っていたんですが、臼杵のふぐはほんとにすごいですね。もう下関は行けなくなりそうです」先輩も、やはりやや興奮気味に言った。
「ありがとうございます。下関から臼杵に流れてくる人はけっこう多いんですよ」
会話のさなかに、ビールを飲むと、手元にメニューがあるのに気がついた。ふむふむと読んでいると、ふぐの白子が目に入った。
「なんか、白子がありますよ。ふぐの白子なんて、うまいに違いないですよ」
「頼もうか、じゃあ白子ふたつ」先輩は値段を全く見ずに注文をした。白子は驚くべき値段だったのだけれど、もう全てがどうでもいい気がしてきて黙っておくことにした。
雑炊が来た。
ひれ酒とともに。
ふぐの白子は小さなミカンくらいの大きさがあった。膜がぱつぱつに張っていた。スプーンを押し入れてもなかなか切れないのだ。ぎゅぎゅっと押し込むと膜が破け、まるでホワイトソースのようなとろとろの液が出てきた。
口に入れたら、塩気のある膜が舌を軽く刺激し、直後、包まれていた濃厚な香りがばっと広がった。あぶられた微かな香ばしさが、全体をまとめている。磯の香りが抜群である。これはもはや海……滋味深く獰猛で、香り高く味わい深い。ただならぬ事態である。大変うまい。信じがたくもくらくらしていた。
飲み込んでも、口の中に旨味がべったりと残った。雑炊を食べる。白子の旨味と雑炊が口の中で混ざる。ほとんど暴力的だ。暖かなひれ酒は、カラメル色に揺れ喉を落ち、アルコールの揮発に合わせ、喉の奥をたゆたう。コロナで外食が禁止された、全ての抑圧をすべて忘れさせてしまうほどにうまかった。
どうするんだよこれ……とやや恍惚の表情で白子から顔をあげると、やはり先輩も、これは大変なことだという表情をしていた。始めてのふぐは、僕に尋常ならざる衝撃を残した。
店を出た。うわ言のようにうまかった。うまかったな。うまかったですねと呟いて、駅までの道を亡霊のように帰った。