今夜はいやほい

きゃりーぱみゅぱみゅの「原宿いやほい」のいやほいとは何か考察するブログ

90年代はじめに生まれたゆとり世代がインターネットを振り返る

 

1990年代の初頭にこの世に生まれた。Z世代のように、幼い頃からスマホを持ち、インターネットにほとんど全てが繋がっているのではないかというような世界で育った世代ではなく、インターネットは物心ついた頃からあったものの、インターネットのない世界がまだ全然大きかったころに10代を過ごした世代ということになるのではないかと思う。

 

今回は、インターネット老人会 Advent Calendar 2023 - Adventarの企画でこの記事を書いている。発起人のはせおやさいさん(hase0831)にインターネット老人会というテーマで何か書きませんか〜と連絡をいただき、あまり深く考えることなく、書きます!と返事を送ったのだが、後から考えてみると、僕は、どう考えても、インターネット老人会には該当しない世代なのである。

 

Twitterでフォローしているtoyaさんも記事を書いていた。そう、インターネット老人会は、まずFTPでHTMLをアップロード。これである。正しいインターネット老人会員たるにはFTPくらい使っていないと話にならないのである。

インターネットとウッチャンナンチャンと日記猿人と日記才人とテキスト庵と私(インターネット老人会 Advent Calendar 2023 18日目) - Really Saying Something

 

僕は、HTMLのタグを携帯のHPビルダー的なものでちまちまと打ったことはあるけれど、思い出と呼べるものなんてその程度だ。しかし、書きます!と言ってしまったからには書かないわけにもいかないので、自らのインターネットとの触れ合いを書いてみようと思う。つまり、これは、インターネット老人会ではなく、インターネット中年会のようなものになるのではないかと思う。

 

2000年 Hotmailでメールアドレスを持つ

記憶している限りでは、僕のインターネットの遭遇は小学校中学年くらいの頃で、父親のパソコンを触り出したことに始まる。Windows98か2000だったのではないかと思う。

 

あなたのインターネットはどこから。僕の場合はHotmailだった。

 

ある日、父は、何を思ったのかはわからないが、21世紀を生きる人間としてインターネットも必要だろうと思ったのか、突然Hotmailのメールアドレスを作り、こうやって文章を書いてここを押すとメールなるものが送れるのだと教えてくれた。最初は送る相手もいないので、なんの用があるわけでもないのだけど、父に向けてメールを送ったりしていた。かな入力を使い、人差し指でぴこぴことキーボードを叩いていた。

 

その頃、僕はスポーツ少年団に入っていて、他校に友人が何人かいた。ある友人と話をしていると、その彼も、メールアドレスを持っているというのだ。アドレスを聞いて家に帰り、Hotmailにログインして、メールを書いた。ぽちっとメールを送信し、夕飯を食べて、再びHotmailを開くと、友人からメールが届いていた。

 

誰かに連絡をしようと思ったら、まず家電で相手の家に電話をかけ、向こうの親に、友人まで電話を取り次いでもらう必要があった。それがぽちっとボタンをクリックすれば、連絡が取れるようになったのである。え、自転車で30分くらいかかる距離なのに、こんなことが可能なのか!と僕は小学生ながらに仰天したのである。

 

2000年代前期 ヤフーメッセンジャーで男性の全裸に遭遇

その一年か二年後、友人はヤフーメッセンジャーなるソフトを使っているのだと言った。僕もそのヤフーメッセンジャーなるものを使ってみることにした。いわゆるチャットサービスだった。触ってみると、とても手軽に友人と連絡とることができることが分かった。夜な夜な小学生的なくだらないやりとりしていた。

 

ある日、ヤフーメッセンジャーに公開のチャットなるものがあることに気がついた。ふーんと思い開いてみると、見知らぬ人からチャットが飛んできて、画像がゆったり開いていくと、それは全裸の男性の画像だった。

 

ぎょっとしてすぐ閉じた。インターネットはとんでもないところであるらしいことを僕は学んだ。インターネットという荒野では相手が誰であろうと容赦ないのである。(しかし、あまりにも幼かったので誤記憶なのかもしれない。どんな誤記憶だ...という感じだが)

 

その後、学校でもパソコンの授業がおこなわれたりした。幾人かのクラスメイトはネットをよく見ているらしく、フラッシュ倉庫なるものがあるんだぜといって、みんなで取り囲んで見るというようなことが起こっていた。これは、多分同世代の多くが見た光景なのではないかと思う。

 

2000年代中期 パケ死、センター問い合わせ

中学生になった。パソコンでメールを書いていた僕は、中学二年生の始めころに携帯を手に入れた。父が携帯を買い換えるとかで、ラッキーなことに、お下がりをもらったのだ。その頃はまだ、クラスの半分も携帯を持っていなかった記憶がある。まだ、中学生が携帯を持つことがそこまでメジャーじゃなかったのだと思う。

 

携帯には第一の壁と第二の壁があった。第一の壁は携帯を保有できるか、第二の壁はパケホーダイを獲得できるかである。今はギガがないというらしいが、当時はパケ死なる言葉が流通していた。あいつは何万円の請求がやってきて、親から携帯を没収されたらしいなんていう話がよく聞こえて来た。

 

僕は、第一の壁はお下がりを手に入れることですみやかに突破したのだけど、第二の壁を超えることがなかなかできず、パケ死するわけにもいかないので、携帯をそんなに自由度高く使えているわけではなかった。

 

当時、仲が良かった友人は、スポーツでただならぬ成績を上げ、信じられないくらいにモテていた。どれくらいかといえば、他校にファンクラブがあり、一緒に登下校していたら、いろんな学校の女学生たちから、ぽんぽんメールが送られて来るという有り様だった。他方、仲が良いだけの自分には特に何かが起こるわけもなく、意味もなくセンター問い合わせをしてみるなどして、溜まっているメールがないことをあるがままに受け止めるだけなのであった。

 

2000年代中期 2ちゃんねると原始ニコニコ動画

同じクラスに「彼ら、2ちゃんねるなるサイトをみて、やばいことをしているらしいよ」という噂が立っているグループがいた。電車男の前のことだったので、まだ2ちゃんねるがそこまでメジャーな存在感を持っていない頃のことであった。

 

僕の中学校は自転車通学が禁止されていたのだけど、その2ちゃんねるグループの一人のクラスメイトの家が結構大きく、学校に大変近かったため、自転車でそこまで通って、停めさせてもらう、ということをやるようになった。

 

友人の家には、2ちゃんねるをやっている、アニメが好きなオタクたちがたむろしているようだった。自転車を置かせてもらうことで、徐々に彼らと仲良くなって、学校の昼休みに、彼の家に行って茶を飲み、くつろいだりするようになった。彼らの中ではインターネットミームが流通していて、この辺りで2ちゃんミームが分かるようになった。

 

彼らは、インターネットで録音技術と動画編集を学び、自らの声を録音してテープに吹き込み、アニメの映像に声を貼り付け、それを繰り返し再生して遊ぶというようなことをやっていた。当時、少年マガジンネギまが連載され流行っていた。ハッピーマテリアルである。僕の声も録音され、ネギまキャラに貼り付けられ、それをループ再生して、けらけらと笑ったりしていた。もう、遥かかなた昔のことなのに、今でもこの時のことが頭に浮かぶことがある。思えばこれは、ほとんどMADで、原始ニコニコ動画のようだったなと思う。

 

2000年代後半 ケータイ小説 恋空の感想を前略プロフィール

高校生になった。僕たちの世代の自己表現は着メロであり、壁紙であり、文学といえば、ケータイ小説であった。

 

その頃、たしか、レミオロメンの南風もしくはRADWIMPSのEDPが好きでiモードでどこかのサイトからダウンロードして着メロに設定し、イイ、これはイイと浸ったりしていた。中学の友人は同じ高校を受験したのだけど、試験中に”上海ハニ〜と浜辺、社交ダンス、見つめっぱなし たまんねぇ女神〜”とOrange Rangeの浮かれた着うたが流れ、受験に失敗していた......

 

なんか流行っているらしいということで、ケータイ小説の金字塔、恋空をちょろっと読んでみたりもした。正直、あまりよく分からなかった。しかし、よく分からないなりに、読んでみたりしていたので、当時の影響力たるやすごかったのだろうなと思う。下手したら同世代で最も読まれた小説なのではないだろうか。中学校の同級生だったヤンキーの女の子はケータイ小説を読んでは前略プロフィールに感想を綴っていた。Deep Love...... 戦後日本で、ヤンキーが最も小説を読んだ時代だったかもしれない。

 

配偶者はエムペで夢小説を読んでいたらしい。当時の話を聞いたら、逆トリップものって分かる!?と早口で語っていた。

 

『切ナイ恋物語🌸恋空🌸前』美嘉 - 魔法のiらんど

 

2000年代後半 Youtube 涼宮ハルヒの憂鬱同時多発テロ陰謀論

一方、オタク世界では涼宮ハルヒの憂鬱が一世を風靡していた。リアルタイムで放送は見ていなかったのだけど、追ってアニメを見た。恋空よりも圧倒的に面白かった。Youtubeでは踊ってみた動画が大量に上がって流行ったりしていた。そう、もう、この頃にはYoutubeができていたのだ。

 

どう検索したのか定かでないが、Youtubeの動画により、僕は、ニューヨークの同時多発テロが実は地下に埋め込まれた爆弾によるもので、あれはアメリカ政府の自演なのだという、”ヤバい”陰謀論を一週間ほど信じていた。幸い、僕はそのつかみ取った”真理”を周りに話したりしていなかったので軽傷ですんだ。黒歴史である。この経験により、インターネットの誤情報に対する免疫がついた気がする。ネットが自分の都合の良い情報をどんどん摂取していく構造になっていることに気がついたのだ。

 

少し後を追ってニコニコ動画が生まれた。僕はニコニコ動画に大変はまっていた。当時は、権利ガン無視でありとあらゆるものがアップされていた。もちろん、まったく、パーフェクトに著作権を違反したものなど見ていなかった。そう、見ていなかったのである。ここまでくるとほとんど現代である。

 

2000年代後半 mixiを5日で辞める

mixiが流行っていた。友人が招待してくれて、登録した。雰囲気が苦手で5日で退会した。

 

2010年代前半  ツイッター、Line、はてなブログ

ここでついに、スマホSNSが登場である。僕は大学1年生のタイミングでスマホを持った。Twitterに登録をした。Facebookにも登録した。大学生活の開始にSNSの普及がかさなったのでとても楽しかった。いろいろな人と繋がれる!すごいと!毎日早朝までTwitterをやっていた。実際SNSを介してずっと付き合うことになる友人もできた。

 

LINEが登場し、メールを書くこともなくなっていった。メールを書くことがなくなる日が来るとは......センター問い合わせをしていた頃から考えると遠くへと来たものである。

 

当時はITの革新でなにか新しいことが起こりそうな雰囲気があった。大学のクラスには将来はITで起業するのだという人がいたりして、謎ウェブメディアを作って一瞬で廃業したりしていた。スマホアプリを作っていた友人もいた。IT世界では雨後の筍のようにいろいろなサービスが作られていた。

 

当時はアルファブロガーなどという言葉があった。東日本大震災があったりして、いろいろな人が社会について語っていた。また、同時になんとなく内向的な文章のブログがちょろちょろバズったりしていた。そんな文章を読んで、自分もはてなブログにアカウントを作って、文章を書き始めた。

 

インターネットはこれから

インターネット老人会はパソコン文化が強く、インターネット中年会であるところの自分はパソコンももちろん使っていたけれど、ケータイ文化がかなり大きい思った。インターネット青年会においては、さらにスマホ文化が大きくなるだろう。

 

なんにせよ、インターネットは本当に急速に進化した。ほとんど空気のようなものであまりにも日常に組み込まれているのでもはやどれだけの影響が自分にあったのかもよくわからないくらいだ。

 

近年の主要なネットサービスはあまり新陳代謝が起こっていない感じがある。最近のもので真の意味でメジャーになれたのはTikTokくらいな気がする。10年後も、やはり、Amazonで買い物をし、Twitterをやって、Youtubeを見ているのだろうか。それとも、スマホなんて誰も使わなくなっていて、新たなデバイスがインターネット風景をごっそり変えているのだろうか。