久しぶりに大学への通学に使っていた電車に乗っていた。もう大学生活が10年ほど前になってしまった。あっという間のことだった。
入学式は、桜が咲いていたような気もするし、散っていたような気もする。一年間、浪人していて、コミュニケーション能力を喪失していた僕は、大学の門の前の人だかりに怯えていた。皆、一様にエネルギーを持て余し、途方もなく元気そうに見えた。僕は慣れないスーツがコスプレのように感じられて居心地が悪かった。予備校時代、唯一の友人が同じ大学に進学していたので、連絡をした。
友人はほどなくして現れ、二人で写真を撮った。友人は、じゃ、がんばろうなと言ってどこかへ行ってしまった。大学生活が始まるのだ。過去にすがっている場合ではないと後姿は言っているようだった。
キャンパスを歩く。ペーパレスやSDGSなどという観念がない時代だったので、投げ捨てられるようにビラがまかれていた。手には7~80枚近くのビラがあり、また、同じくらいのビラが持ち切れずに足元に落ちていった。南米音楽研究会が爆音で演奏をしていた。
まず、学部ごとに学生生活の説明会があるようだ。分厚い扉が開けっ放しになっていた。巨大な教室に学生たちが吸い込まれて行くのが見える。まだ、新しい建物で、巨大教室に入ると、新しい物質の清潔で無機質なにおいがした。
何百人も学生がいた。浪人して苦労して大学に入学したかと思えば、入ってみれば、学生なんて掃いて捨てるほどいるのだなあと思った。僕は少しびびりながら席を探した。ここからが勝負である。学生生活において、友人関係の構築、これは単に生活の充実度だけではなく、大学の単位なるものを取るうえでも、欠かせぬ情報源として実利的重要性を持つらしいと、現役で大学に進学していった幾人かの友人から聞いていたのである。
巨大教室の階段を下りて行く。教室というよりホールというような大きさだ。えーっとあそこから3段で、右から5席目だ。まだ両隣は誰もいなかった。僕は席について、来るべき友人となるのかもしれない人間を待った。
五分ほどでその男はやってきた。僕の左隣に座った。僕は浪人をしていたが、左隣の男は自分より年上に見えた。横目で見るに、痩せ型だが、尖った髪をしており、厳つく鋭いオーラを放っていた。僕は、しかし、現役進学した友人から聞いた、大学生活における友人の重要性についてのアドバイスを頭で繰り返し、その男に声をかける機会をうかがっていた。
大学のパンフレットをカバンからとり出し、読んでいるふりをした。僕は継続的に気配をうかがっていたが話しかけるには至らなかった。浪人生活で根本的に知らない人と話す能力を失っていたようである。周りは皆少しずつ会話のきっかけを掴み始めているようだった。そんなそわそわを察知してか、左隣の男は僕に話しかけてきた。
「どうも」
「あ、どうも」
「はじめまして」
「あ、はじめまして。きくちです」
「木村です」と小学生のような会話をした。沈黙に突入した。これはいかんと僕から話を切り出した。
「始まらないですね」
「そうっすね」
再び話が終わった。僕は、やばい、全然話が続かないではないか!と焦った。
ぼくはその厳つく鋭い男に「どこ出身なんですか」と聞いてみた。
「埼玉っす」
「あ、そうなんですね。僕も埼玉です」
僕たちは出身が同じということで、少し柔らかい雰囲気になった。
「現役ですか」と聞くと「年齢的には三浪ですね」と答えた。僕はせいぜい二浪くらいかと思ってたので驚いた。
「じゃあ、だいぶ先輩ですね……」
「気にしないでください。自分、高校中退してるようなやつなんで」
話を聞いていたら、彼は中退後何年か大工をしていて大学に入ったということだった。オフロードバイクのようなキャリアに、僕は、自らがいかに普通の生活をしてきたか見せつけられているような気がした。説明会が終わり、二人で巨大教室を出た。
「ちょっとタバコいいっすか」と言って木村は喫煙所へ歩いていった。手持ち無沙汰なので僕もついて行った。
「サークルとか何か入るかとか考えてますか」
「考えてないっすね。おれ、三浪ですからね。ノリが違うというか」
「そうですかね……」
木村は特段うまそうな様子でもなくタバコを吸っていた。
二人で電車に乗って帰った。僕たちは埼玉から通っているので方向が同じだった。
「最寄り駅どこなんですか」
「H駅です」
「え、めちゃくちゃ近いですね。僕はその四駅先です」
僕たちは実はすごく近い所に住んでいたようだ。
次の日、僕たちは語学のクラスも同じであることが分かった。
次の次の日、「おい、きくち、新歓に行ってみようぜ」とわずか数日で意思を変えた木村に誘われ全く興味のない謎のテニサーの新歓に行った。森のくまさんのコールに合わせ、ピッチャーで酒が飲まれていた。僕は、完全に来るべきではなかったと、隅でビビっていた。
次の次の次の日、やばい、新歓に行くとタダで酒が飲めるぜと木村は意気揚々としていた。
次の次の次の次の日、木村は深刻な表情をして僕の前に現れた。
「おい、きくち、昨日の夜何があったと思う」
「え、わかんない、何があったの」
「酒のんで、意識がなくなって、気がついたら警察に保護されて留置所みたいな所にいたんだよ。やっと大学生になったのに終わったかと思ったよ」と木村は安堵の笑みを浮かべていた。
「なにそれ、やばいじゃん。大丈夫なの」
「おぼろげな記憶だと、駅でサラリーマンに絡まれたりした気もするんだよな。それで警察来たのかな。いいか、きくち、絡まれたりしたら、どうすればいいかわかるか。ケンカはとにかく手を出させないことが一番大事だから、すごい剣幕で威圧するんだ。ケンカのこつはケンカしないことだからな」
僕は、役に立つのかよくわからないケンカ事前鎮圧理論を聞き、木村は、マジでヤンキーだったんだな…...と思った。
「きくちは、今日これからなにするの」
僕は特に予定がなかった。
「暇なんだよね」
「なんかしようぜ」と木村が言った。
僕は、このオフロード人間、木村がもっともしないように思われることを言ってみることにした。
「じゃあブルーシートでも買ってピクニックでもする、天気もいいし」
木村は「何言ってんだよ」とケラケラ笑った。一分くらい笑っていた。
「じゃあそれな。サンドイッチでも買うか」と言って木村は歩き出した。水と油のように思われた僕と木村は、それからなぜか、やたらと仲良くなっていった。
僕の大学生活はそんな感じで始まった。入り混じる不安は台風のような風圧を持つ木村によってふき飛ばされていったのだった。